top

2017年8月16日水曜日

人は人を救えない

「なぜなら、妻よ。あなたが夫を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。
また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。
ただ、おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです。
私は、すべての教会で、このように指導しています。(Ⅰコリント7:16-17)」

この聖句は、クリスチャンとノンクリスチャンの結婚離婚についてパウロが語ったところです。
そして、文脈としては、
「クリスチャンとノンクリスチャンで結婚している場合、離婚しようとしてはいけない。でも、もし、未信者のパートナーが去っていこう(離婚しよう)とするなら、
あなたは信仰を捨ててついていくよりも自分の信仰を守ることをとりなさい。」
ということが直前に書かれています。

その流れで

「なぜなら、妻よ。あなたが夫を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。
また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。」

と書かれています。

「・・・そうだなぁ」

と、思わずつぶやきました。


人は人を救えない・・・

人は人を変えられない・・・


結婚生活や
ミニストリー
を通して
本当に実感することです。


クリスチャン同士の夫婦であっても、
お互いに、合わないところや、できれば変わってほしいと思うところは
あるものです。

けれど、そう簡単には変わらない

20年30年40年かけて身についてきた習慣や考え方は
そう簡単には変わらないのです。

変わる必要さえ実感しない、ということもあるかもしれません。
ならば、余計に変わらない・・・


結婚前に、

「彼のここは嫌だけど、きっと変わってくれるはず」
「彼女のここは直してほしいけど、たぶん結婚したら変わるだろう」

好きだからこそ、結婚したいからこそ
そこをポジティブに期待してしまう

でも、そう簡単にはいきません。

私も、数多くのことを夫に求め、
その9割は変わらず、
諦めてきました(笑)

そして
そのうちの5割は、
彼 ではなく、
私が 変わることで
解決できた・・・ようにも思います。

自分が変わることで
スムーズにいくこともある

だけど

信仰だけは変わっちゃいけない!

神様が私に与えてくださった「信仰」はどんなものよりも大事なもの。
何においても最優先されるもの。

「ただ、おのおのが、主からいただいた分に応じ、
また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです。」

クリスチャンという私らしさは、何をおいても捨ててはいけない

のだな、と思わされます。


私は私らしく

そして、

人は人を救えない。人は人を変えられない。


じゃあ、
どうやって人と人は歩み寄っていけばいいのか?
どうしたら人と人は1つのようになれるのか?


ここまできて・・・

歩み寄る、1つになる、というのは
なにも2者が同じにならなくても
歩み寄れるし、1つになれるよね

赤と青が1つの色(紫)になるには

絵の具のように混ざり合う方法もあるけど

青のセロハンシートと赤のセロハンシートが重なることでも
紫になる。
けれどこのとき青のセロハンは青のまま、赤のセロハンは赤のままで
元あったものが変わってしまったわけじゃない。

そういう1つのなりかたもあるよね

と気づきました。



そして、

自分の結婚生活を振り返った時

私は夫を変えられなかったけれど
神様が彼を変えてくれた・・・
と実感することがたくさんあることに気づきました。

時間をかけて…
私が何もできずあきらめたころに
願っていたことを自ら言ってくれるようになったり
願っていたことを自らしてくれるようになったり
したのです。

それは私ではなく
神様が働いてくださったんだな・・・
祈っていたことを神様は聞いてくださって
私たち2人に思いをとめてくださっているんだな

と、思いました。

「神は、みこころのままに、
あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、
事を行なわせてくださるのです。(ピリピ2:13)」

そして、彼だけでなく
私も 神様の働きによって変えられている・・・
と思います。

「ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。(ピリピ3:15)」

人は人を救えない。
人は人を変えられない。

でも
神様は人を救える、
神様は人を変えられる

だからこそ

「何も思い煩わないで、
あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、
あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 

そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、
あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ 4:6-7)」

という言葉を信頼したい
と思います。

「それゆえ、神に選ばれた者、きよい、愛されている者として、
あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。 

互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、
互いに赦し合いなさい。

主があなたがたを赦してくださったように、
あなたがたもそうしなさい。 

そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。

愛は結びの帯として完全なものです。(コロサイ3:12-14)」


神の愛こそが、人を救い、人を変え
人と人を繋いでくださり、
1つにしてくださるのかもしれません。





<9/2北陸CCM 開催!!!>

北陸は富山県のログハウス風カフェで
北陸CCMスピンオフ開催します!

結婚を祈るクリスチャンのための「セミナー&交流会」
in 富山 Grace Cafe OASIS

日時:9/2(土)
14:00~17:00(Open13:30)
参加費:500円(ドリンク・デザート付)
場所:Grace Cafe OASIS
 富山県射水市海老江630-2
射水海老江コミュニティーセンターすぐ横

詳細、お申し込みは↓↓↓
https://chubu-christian-marriage.jimdo.com/ccm-toyama/


2017年8月12日土曜日

主にある婚活って?

私の大好きな聖句の1つがこれです。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。
それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
私たちは神の作品であって、
良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。
神は、私たちが良い行いに歩むように、
その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。
(エペソ2:8〜10)」

信仰により恵みによって与えられる・・・

ガラテヤ3章を読むと、
どう「救いが信仰により恵みによって与えられる」ということに
至っているか、ということがわかるような気がします。

人に(イスラエルの民に)
律法が与えられました。
人はそれを全うしようとしたけどできませんでした。
律法は、人が救われる方法論、ともいえると思います。

でも、できなかった・・・。

けれど、できなくっても当然なのです。

そもそも、律法は人がそれを全うするためにあったわけじゃない

神様の義がどういうもので、どうしたら救われるかという方法で
神の義と人の罪を知ることで人はある程度養育され、ある程度守られ、

そして、
律法を全うするのはキリスト(神の子)だけで
「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。(マタイ5:17)
「キリストが律法を終わらせたので、信じる人はみな義と認められるのです。(ローマ10:4)


人々がその完成者なるキリストへの信仰へと至るためのものだったのです。

そして、信じた人々は神の恵みにより義とされ、永遠の命の約束と聖霊を与えられました。




あらゆる物事が、

もしかしたら、この原理なのかな、
とふと思ったのです。



結婚相手に出会う、愛される、主にある人間関係を築く
その方法、メソッド、こうしたらいい、ああしたらいい
というものは、確かにあります。

だけど、それだけで、必ず幸せな結婚できるかといえば
多分そうじゃない、と思うのです。


そこに、神様の恵みがなければ、
きっと完成はしない。


愛される、人間関係を築く方法、メソッドは
きっとある程度役に立ちます。
それをやろうとすることで、
人として成長したり、気付いたりすることは、
きっとたくさんあると思います。

だから、それをトライして、やってみようとすることは
いいことだと思います。

でも、それだけではうまくいかないとしても
それは、きっと当然・・・だと思うのです。

(「それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」
と先ほどの聖句にもあります。刺さりますね・・・。)

神が導く、
神が恵みと憐れみによって完成する・・・。

それを、私たちは、信じる。

そういうことなのかもしれない、と思ったのです。



とすると

ものごとがうまくいかない、というのは、
実はとてもいいことなのではないか、と思ったりします。

世にある方法や常識ではうまくいかない、
完璧にはいかない

そのことを通して、私たちは神を仰ぎます。

もしかしたら、
なんなら
神を仰ぐようになるために、
うまくいかないようにできているかもしれない。

きっと
大事なのは、自分の力でうまくいくことではなくて、

神の力によってうまくいくこと、

そして、それを通して
「やっぱり神様は共におられる!生きておられる!」
と神をほめ讃えるため・・・
なのではないかと思うのです。

(聖書を読んでいると、どうも人間の最上の喜びは主の栄光をほめ讃えることのようだな、と思わされます。なかなか、その実感を得るのは難しいのだけど…)


うまくいかないのは

より「主にある幸せな結婚」「神の結ぶ完璧な結婚」
へ近ずくための道なのかもしれない、、、と
思ったりします。


でも、主の道は計り知れない
そして、おうおうにして、厳しく、そこには試練がともなう・・・




なんでもいいから結婚したいか
どんなでもいいからウェディングをあげたいのか

それとも

神に導かれて、神に保証された、祝福溢れる結婚がしたいのか



きっと
それらを選ぶことを
私たち人間はまかされている。

自由意志があたえられている。

応えるのは、
今生かされている私たちの
そして、クリスチャンとなるようにと招かれた私たちの
責任だ・・・

と思います。


私自身も、毎日のように、突き付けられています。

ひとつひとつのことが
信仰により恵みによって成ることを
神様が完成してくれることを
願うか、どうか・・・

本当に、試されます・・・。

正しいものを、選び取りたい・・・
と、願い祈ります。




<9/2北陸CCM 開催!!!>

北陸は富山県のログハウス風カフェで
北陸CCMスピンオフ開催します!

結婚を祈るクリスチャンのための「セミナー&交流会」
in 富山 Grace Cafe OASIS

日時:9/2(土)
14:00~17:00(Open13:30)
参加費:500円(ドリンク・デザート付)
場所:Grace Cafe OASIS
 富山県射水市海老江630-2
射水海老江コミュニティーセンターすぐ横

詳細、お申し込みは↓↓↓
https://chubu-christian-marriage.jimdo.com/ccm-toyama/



2017年8月10日木曜日

自意識から逃げない

若い頃・・・

夢を追いかけていた頃

それはつまり、夢がなかなか叶わず

もがいてもがいてもがきまくっていたころ


あの頃ほど

嫉妬、ねたみ、そねみ、ひくつ

でいっぱいだったことはないな

と思います。


いつも誰かをうらやんで
いつも誰かに嫉妬してて
いつもすべてを斜めにみて
くやしくて、くやしくて、くやしくて
うらやましくて・・・

でもそれ以上に

そんなことを感じている自分がいやで

なんて格好悪いんだ

人をうらやむ自分、嫉妬して、心の中でねたんでる自分

なんて情けないんだ

と思って・・・


うらやんで、ねたんでる自分を直視することが

一番つらかったです。

自意識が過敏になってる自分も、かっこ悪いなって思って
なんだかまたくやしくて

そんなこと関係なく、自分らしくあることを
貫きたいのに・・・

そうは思っても、自意識が募る

そして、ダメな自分、負けてる自分、結果出せない自分が
うきぼりになる。
夢を叶える友人、先へと進む友人、輝いてる友人が
どんどん、うらやましくなる。

それは、

夢を叶える、ということの当事者であるからこそ
そのレースに参加しているからこそ
感じることではあったと思うのです。


たとえば、
ダンサーになりたいと思ってる人が
弁護士になりたいという人と張り合うことはないだろうし
うらやましいとか、ねたんだりとかはないと思うのです。


けれども、当事者でありながら
当事者の立場から逃げてしまったら・・・
他の当事者からみたら「ん?」となると思うのです。


夢を追ってる途中の者なのに、
まだなにも達成してもいないのに
まるで到達した者のように「ああだよね、こうだよね、こういうものだよね」
という人が、あの時もいた。(そういう先輩っている・・・)

でも、そういう人がどう見られたかといえば
「めんどくさい」「信用できない」「眼中にはいれなくていいや」
そして
「あの人のようにはならないようにしよう」

そう周りから思われてたし、
私も思っていました。

(いや、もし、私自身が気づかないうちにそういう人になっていたかもしれない。
だとしたら、本当に恥ずかしい・・・)


自意識も辛いけど、そこにはならないようにしよう・・・。

今振り返っても、そう思います。



結局、私の場合、夢は一度敗れたわけですが、

自分の中の、妬み、そねみ、うらやむ思い、自意識と
とことん向き合うことができたのは

とてもいい経験でした。


そして、その時の経験が
意外なことに
婚活の時に役に立ったのです。

婚活の時には、信仰を取り戻していたので、
妬み、そねみ、うらやむ思い、自意識と
たった1人で向き合うのではなく
神様と一緒に向き合うことができました。
(ねたんでるとか、うらやましいとか、そんなこと恥ずかしくて誰にも相談できない。
だから、神様にだけ相談してました。相談できる神様がいて、本当に良かった・・・)

そして、
「実は人を妬んだり羨ましいと思うめっちゃ格好悪い奴なんです、私」
という自覚があったからこそ
相手の前で虚勢をはることもなくフラットで入られたような気がします。


自意識と向き合うのは

結構辛いけれど

自分が本当に何者であるかということを
とことん知る、大事な機会かもしれない
と思います。


ダメな自分からは
逃げてはいけない・・・
自分という人生の当事者であり続ける


自分の人生は、自分にしか歩けないのだから・・・・



そんなことを、

あの頃を思い出しながら

改めて思います。




<9/2北陸CCM 開催!!!>

北陸は富山県のログハウス風カフェで
北陸CCMスピンオフ開催します!

結婚を祈るクリスチャンのための「セミナー&交流会」
in 富山 Grace Cafe OASIS

日時:9/2(土)
14:00~17:00(Open13:30)
参加費:500円(ドリンク・デザート付)
場所:Grace Cafe OASIS
 富山県射水市海老江630-2
射水海老江コミュニティーセンターすぐ横

詳細、お申し込みは↓↓↓
https://chubu-christian-marriage.jimdo.com/ccm-toyama/





2017年8月8日火曜日

地道にコツコツ

地道にコツコツ、、、

久しぶりに
この果てしない作業をしています。

北陸3県プラス高山のプロテスタントの教会150箇所へ
9/2の北陸CCMの会のお知らせを送ります。

チラシのデザイン、印刷発注から
添付するお手紙の作成、
ラベリング、折って封入…

内職だったら、一部一円にもならない
しかし、めちゃめちゃめんどくさい作業を
コツコツコツコツ自分の手でやる。

時間がかかるので、

やりながら

これ、意味あるのか?

という思いと

用いられますように!

という思いが

交互に心をめぐります。

なぜ、この、費用対効果の悪そうな
アナログな作業をするか、
インターネットの時代にお手紙を送るか
(切手代もかかるのに)

それは、いまだ多くの教会が、
比較的アナログなところが多いから

そして

温かみをもってお伝えしたいから

そして

例え、会への参加者につながらなくても、

この手紙を通して「クリスチャン結婚」について考えたり祈ったりしはじめるきっかけとなり、少しでも動いてくれたらいい…な…

そんな願いをこめています。



なぜ、教会に働きかけるかといえば

やはり教会はクリスチャンの拠点となるべく神によって建て上げられたものだと思っているからです。


これまで、何度も「教会」というものに失望してきました。

中3の頃には、母教会で分裂がおき、私達一家は姉妹教会へ転会しました。その後、もといた教会の牧師は後任も残さず教会を去ったそうです。東京で信仰を取り戻すきっかけとなった教会は、3年の間にカルト化し、奉仕に明け暮れるも何か違和感を感じ、実家に帰ろうと相談した牧師には「君はエゴイスティックだ、独善的だ。今ここを離れたら君に祝福はない。」と激怒されました。

故郷に戻り、再び家族と共に行くようになった教会では、積極的に教会に仕えるほど嫉妬をされたり、私個人のミニストリーを教会の成果のように無断で週報にあげられたり、ついに突然話し合いの余地もなく牧師夫妻は教会を離れていきました。

周りで、鬱になったり、尊敬できない献身者の姿、リーダーたちのダークサイドをたくさん見ます。


「教会」という組織に失望することが、あまりに多かったです…。


それでも、


私は、どこかで


教会の底力を信じたい…


そう思っているのです。


主によって置かれた教会を

主によって召された献身者たちを

主が動かし、用いてくださることを


すごくすごく願い、期待したいのです。



もう一つは、

婚活サポーターとして、

一生懸命祈り行動し頑張ろうとしている婚活中の方々に


ガンバレ!


と言う私が頑張ってなかったら

なんの説得力もない…

と思うから。


私も、できることを

必死に祈り、知恵をしぼり、犠牲をはらい、がんばります。

そうあるべきだと思うのです。



兎にも角にも

150通、完成し、先程投函してきました。


あとは、神様。よろしく!!!!


<9/2北陸CCM 開催!!!>

北陸は富山県のログハウス風カフェで
北陸CCMスピンオフ開催します!

結婚を祈るクリスチャンのための「セミナー&交流会」
in 富山 Grace Cafe OASIS

日時:9/2(土)
14:00~17:00(Open13:30)
参加費:500円(ドリンク・デザート付)
場所:Grace Cafe OASIS
 富山県射水市海老江630-2
射水海老江コミュニティーセンターすぐ横

詳細、お申し込みは↓↓↓
https://chubu-christian-marriage.jimdo.com/ccm-toyama/



2017年8月7日月曜日

神様のロジック

「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。
それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、
また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、
いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。
(ピリピ人への手紙 2:14-16a)」


この箇所を読んで、とても考えさせられたことがあったので、
シェアしたいと思います。


すべてのことを、つぶやかず
すべてのことを、疑わず
行なうって

結構難しい・・・ですよね。


大人になればなるほど・・・難しいです。


いろんなことを、つぶやく口がとめられない
つぶやく手がとめられない
つぶやきが口に出ずとも顔に出てしまう

いろんなことを、疑ってしまう
信じられない、騙されること傷つけられることが怖い



それら一切をやめて

すべてを行なうって

そんなこと、できるのかな?・・・て


つい疑ってしまう。(ほら、もう疑ってる・笑)




でも、

まず、やりなさい、とパウロは語る。


やりなさい


やっていく中で「純真な者」とされていく
やっていく中で「曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子ども」とされていく
やっていく中で「いのちのことばをしっかり握る」ようになり
やっていく中で「世の光として輝く」ようになる

から

ということなのかな、思ったんです。


もちろん、

考えただけで、とてもできない!と思うことをやっていくので

どうしたってそこには「祈り」がともないます。


「神様、できるように助けてください!
やっていく力と知恵を与えてください!
変えてください!・・・」



純真な者となったら、傷のない神の子どもとなったら、
いのちのことばを握れるようになったら、世の光となったら・・
↓↓↓
つぶやかず、疑わず行なうようになる

・・・

のではなくって


逆・・・だ。



できないところから、

まず、やりはじめる。


やると、変えられていくから・・・。




ときどき
聖書を通して示される神さまのロジックには
本当にハッとさせられます。

私たちが常識だと思っていたことの逆を、当たり前のように語っていたりします。


しかし、びっくりするような神さまのロジックこそが、
きっと真実なのだと、私は信じます。



<9/2北陸CCM 開催!!!>

北陸は富山県のログハウス風カフェで
北陸CCMスピンオフ開催します!

結婚を祈るクリスチャンのための「セミナー&交流会」
in 富山 Grace Cafe OASIS

日時:9/2(土)
14:00~17:00(Open13:30)
参加費:500円(ドリンク・デザート付)
場所:Grace Cafe OASIS
 富山県射水市海老江630-2
射水海老江コミュニティーセンターすぐ横

詳細、お申し込みは↓↓↓
https://chubu-christian-marriage.jimdo.com/ccm-toyama/


2017年8月4日金曜日

結婚しても(ほぼ)確実に礼拝を守り続けられる方法

思いがけず、
人生の先輩方と「クリスチャン婚活」の話になりました。

きっかけは自分の結婚のなれそめでした。

「結婚のなれそめは?」
「あ、私はお見合いです」
「お見合いーーーーーーー!?」

まさか、今もそんなシステムがあるとは!
そんなシステムの中で結婚して幸せになる人がいるとは!

と、驚きやらなんやらで、その場は大いに盛り上がりました(笑)

そして、
あちこちから「結婚適齢期の人がいるんだけどね」
という話が・・・。

さらに、話は、
「クリスチャン同士の結婚が、やっぱりいいよね」
という声になっていきました。


クリスチャン同士で結婚した先輩ご夫婦もいれば
結婚後、夫婦揃ってクリスチャンになった先輩ご夫婦もいれば
パートナーがノンクリスチャンで他界されてしまったという方もいて

けれど、結論としては
なんだかんだで、やっぱり
「夫婦一緒に、クリスチャンがいいよね」
ということでした。


結婚してもクリスチャンであり続けたい
人生の試練はやはり聖書のみことばと、祈りと、まことの神さまとのつながりでしか乗り越えられない

そんな実感があるからこそ、だと思います。


ある牧師夫人の方が
「彼が、牧師になるって言った時に、やったー!って思ったんだよね」
とおっしゃいました。

「だって、そしたら確実に結婚後も礼拝を守れるじゃん!」


そういうことーーー?!


教会生活がない生活なんて、絶対にありえない!と思ってきた彼女にとっては
ものすごいメリットに感じたそうです。


たしかに・・・
たしかに、そうだ。

一信徒ならば、何かの事情で教会を離れてしまうこともあるかもしれない。
でも、牧師ならば、自分が教会を建て上げる先頭に立つし、毎週メッセージも作り、牧会もするし、教会から離れるという可能性は極めて低い。
ということは、逆に言えば、教会生活はかなり守れる。嫌でもなんでも守られる(笑)

これは、考え方によっては
結婚しても、確実に礼拝を守り続けられる方法と言えるかもしれない。

そして、実際にそう考えて、結婚した人もいる、ということなのですよね。



「牧師、献身者とは、ちょっと・・・」という女性の声が少なくない中で
ちょっとした衝撃でした。

なるほど、そういう視点もあるのだ。


妙に納得してしまいました。



<9/2北陸CCM 開催!!!>

北陸は富山県のログハウス風カフェで
北陸CCMスピンオフ開催します!

結婚を祈るクリスチャンのための「セミナー&交流会」 
in 富山 Grace Cafe OASIS

日時:9/2(土)
14:00~17:00(Open13:30)
参加費:500円(ドリンク・デザート付)
場所:Grace Cafe OASIS
 富山県射水市海老江630-2
射水海老江コミュニティーセンターすぐ横

詳細、お申し込みは↓↓↓
https://chubu-christian-marriage.jimdo.com/ccm-toyama/




2017年8月2日水曜日

教派・教団・主義の壁

ここ数日、
いや
ここ数ヶ月
モヤモヤとしていることがいくつかあり、
それが一体なんなのか、少しずつ因数分解しています。


それで、見えたことの1つが

「教派、教団というボーダーをつくること、
カテゴライズすることで
何のメリットがあるんだ?」

ということでした。



クリスチャンホームで育って、ほとんど同じ教会で育ち
婚活を本格的にするまで、「教団、教派」というものを
意識することはありませんでした。

婚活で初めて、
いろんな教派といわれるものがあり、いろんな教団といわれるものがあり
それらの間に、思った以上の壁があるんだということを
知りました。

ANNIというクリスチャンシンガーとして
賛美コンサートでさまざまな教会に呼んでいただき、訪れます。
まったくもって、超教派で活動しているので
本当にいろんなスタイルの教会、礼拝に触れます。

リベラルなスタイルもあれば、福音派もあり、
オーソドックスで型を重んじるスタイルもあれば、異言の飛び交う聖霊派の礼拝も
どれも経験することができました。


それであってもなお、思うのです。

「教派、教団というボーダーをつくること、
カテゴライズすることで
何のメリットがあるんだ?」


なぜなら、同じ神を信じている、同じイエスキリストを信じている、同じ御霊がそこにある
それらが「同じ」ならば、スタイルの違いを超えて、交わることができているからです。

それぞれのスタイルには、その歴史があり、背景があり、良さもある。

知らないスタイルに対して、表面だけや噂だけを聞いて、
合うとか合わないとか、いいとか悪いとか、偏見の目でみてはいけないんだ
ということを、
さまざまな教会へ訪れ、いろんなクリスチャンの方に触れることで、教えられました。

〇〇派だとか
△△教団だとか
□□主義だとか

よく知る前に、カテゴライズしてしまうことで
大きく誤解をしてしまうことは、多々あるんじゃないかと思います。

そして、教派、教団、主義に属しているということと
その人のパーソナリティーとは
心配するほど密接に関係はしていない、

というのが、私の感想です。


現に、CCMをやってきて
礼拝のスタイルがまったく違う2人が結婚することがほとんどなのです。

私たち夫婦も、
いわば「福音派」と「聖霊派」カップルです。

聖書や聖書の教えに対する知識は、
教団教派の影響よりも、
個人の礼拝に対する熱心度、聖書に対する興味の度合いによります。



だから、

あの人は〇〇派だから
あの人は△△教団だから

ということで、人や自分をカテゴライズしてしまうことは
必要以上に壁をつくり、自分を小部屋におしこめてしまうことになるんではないか?

と思うのです。

それは、婚活においては、チャンスを狭めてしまうもったいない状況です。


聖書の中でも
パリサイ派だのサドカイ派だの、ユダヤ人だの異邦人だの(※イエス昇天後)
壁をつくり、互いに偏見を持ち、どっちが正しいだのと議論をしてる様子を
見ることができますが、
いいことなんて、ひとつもない。
それで、どれだけパウロが頭と心を悩まし、どれだけの手紙を書いたことか・・・

もちろん、それぞれのスタイルに欠点もあると思います。
どの教派・教団・主義が完璧ということも、神の前にはないとも思います。

でも、その違いや難点を冷静に見極めるには、
無知のまま偏見を持って見るということを
まずやめなければならない、と思います。

聖書には、どの教派、教団、主義ならば、天に入れられるとは書いていない。
同時に
「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者がはいるのです。」
ともあります。


天において再会することを考えた時、
地上においてクリスチャン同士が互いに壁をつくることに
なんの意味があるんだ?
そんなこと、神様がどう評価するというのだ?

と思ってしまいます。

さまざまな礼拝スタイルがあり、その中で自分が一番合う礼拝スタイルで
主を礼拝すればいいとおもいます。

でも、自分がいいと思うものが普遍的にベストで、
自分がいいと思えないものが悪いもの
としてしまうのは
非常に残念に思います。


そして、
教会堂という建物も、教派教団という組織も
すべて人がつくったものです。
いつ壊れても、失ってもおかしくないのです。

無牧になって教会がなくなることもある。
教団が分裂してしまうこともある。
災害で建物がなくなってしまうこともある。
急な引越しで教会を離れねばならなくなることもある。


そういう不確定なものにすがるよりも
神様が直接与えてくださる福音をシンプルに拠り所とすることが
大事なのかもしれない



こんな時代だからこそ

そう思うのです。