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2015年10月9日金曜日

妻は夫に従いなさい、をどう捉える?

こんにちは
中部東海地方の結婚を祈るクリスチャンのオフ会CCMのカワセです。

「教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです」
「妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい」
「妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。」
「妻もまた、自分の夫を敬いなさい」

これを読んで、婚活や結婚が億劫になる……という女性もいるのではないでしょうか。



聖書をよく読む真面目なクリスチャン女性ほど、
よし、このみことばに従った妻になろう!と目指すかもしれません。
しかし、ここで、その裏でこんな思いがわきませんか?
「だから、従うに相応しい男性じゃないと結婚したくない…」

自然と男性に対する目が厳しくなるような気がします。


一方で、クリスチャンであり妻である方々が、
夫と寄り添って生活していながらも、夫のいないところで、夫をバカにしてこけおろして盛り上がって話している姿も見ます。
夫の言うことや判断に反論しないとしても、心の中で尊敬や合意がないのは…
本当の意味で夫に従っている、と言えるのだろうか…
と思うのです。


きっと大切なのは、心のあり方。

「従う」の原語はhypotasso、「身を下に置く」という意味だそうです。

自分を高くしない、てこと。
相手を見下さない、てこと。
見上げるように尊敬する、てこと。
階段をのぼるとき相手が自分よりも先にのぼっていたら、後に続く自分は相手より下にいる。けど、その位置なら、すごくサポートしやすい。転げ落ちそうになるのを予測できるし、サッと支えることができる。
助け手としては最高の位置付け。

ね?なんの疑問もわかなくないですか?
「夫に従いなさい」への抵抗は減る気がしませんか?
相手が自分よりすごい人とかカッコイイ人じゃなくても問題じゃない、ですよね。


それでも、
従いたくない、身を下に置きたくない、
自分を相手より低くしたくない、
見下す位置がいい、
相手を見上げたくない、自分の心で相手を尊敬したくない、下から見守り支えたくない…

というなら、

それはもう、相手の問題じゃなくて、

自分の問題

てことになると思います。



相手によらず、自分がどんな妻でありたいか、妻として夫婦の中でどうありたいか。

結婚前も、結婚してからも、ちゃんと向き合って思い巡らし、見失わないようにすること…

大事だと思うんです。



「妻は夫に従いなさい」というみことばと共に結婚生活をおくる醍醐味、というのがあります。

少し前まで他人だった夫…歴史も育った環境も生き方も表現方法も自分とは全く違う人
一緒に生活していくと、驚くこと、理解に苦しむこといっぱいです(お互いに)
中には受け止め難いと思えることもあります。バカにしたくなるようなこともあります。理解不能と思えることもあります。(お互いにね)

(それがどんなに結婚前は、欠けも影もない素晴らしい人に見えてても、必ずなんかあります、人間ですから。)

けれど、「夫に従いなさい」というみことばがあるゆえに、どうしたら従えるか、夫を尊敬できるか、
そのために何度も何度も彼のいろいろを捉え直していくんです。いろんな側面から彼を理解しようと考えてみることを、何度も何度もトライします。
そうすると、いつか腑に落ちるんです。そうか、だからあんな行動しちゃうのね、とか、それはそれでありなのか、とか、そういうところがあるから2人でバランスとれるからいいか、とか。

従わなきゃ!とは思わないけど、一緒にいて2人共が安心して寄り添うために、自分ができることを…考えられることを、する。
それが結果的に「妻が夫に従う」姿になっていたらOKじゃないでしょうか?

人はほっといたら自分が世界の中心になってしまう。
自分の感覚や考えが基準になってしまう。
でも、人の知恵なんて絶対じゃないんです。どんだけでも間違える。間違えても自分の責任。
「みことば」という絶対的基準があり、それに自分を調整して生きていくのは、実はすごく平安の中で生きる方法なんじゃないかと思います。例え、みことばが間違っててもそれは神様の責任でしょ?(笑)
みことばが間違ってたと思えることは、今のところ一度もないけど。


さて、明日は富山でCCMオープンカフェです。新しい出会いが楽しみです!
夫と共に向かいます。

そして、10/31は名古屋お見合いパーティーです。まだエントリー可能ですが、すでに17人参加予定。迷っている人はお早めに!
http://chubu-christian-marriage.jimdo.com/party2015/

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