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2017年4月28日金曜日

人のいろいろがゆるせない

もうすぐGWですね。
今年がもう4ヶ月もたってしまうのかと思うと、
時の流れのはやさに驚いてしまいます。
(とし・・・)

5月27日にはひさびさにCCM交わり会をやりますから、
是非遊びに来て下さいね。
詳細は、この記事の最後に♪


さて

他人のいろいろが気になる…
相手のあちこちが気になる…
なんとなく「ここがゆるせない」「あれはナシだ」「そういうのはアリえない」
そんな感じで
他人のいろいろが否定的に気になってしまうことがあると思います。


私もかつて

ものすごく人に対して否定的でした。
今もその頃の癖が残っています。

それはもう、気になって気になって
イライラする。

まだ独身で東京に住んで信仰を離れ夢を追っていた頃
都会の人混みの中で、常にイライラして、
新宿のホームを歩きながら目の前の人を全員蹴り倒して歩きたい
と思うほど、常にイラついていました。

・・・

ちょっとイライラが過ぎていましたが(^ ^;)

とにかく他人のいろいろが気になり、
だいたいのことがなんか「ゆるせない」
そんな思いがしたのです。

自分の思いや考えと違うものに対して、
「そういうこともあるよね」なんて受け止める余裕もなく
違うものは「違う、おかしい」と即結論を出してしまう。

そうでなければ、やっていられなかったのかもしれません。
自分をたもてなかったのかもしれません。




でも、
今は、そうでもありません。

いつから、そうでもなくなったんだろうなぁ

と、ふと思いました。




思いめぐらしていたら、このみことばに出会いました。

「 愛には恐れがありません。
全き愛は恐れを締め出します。
なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。
恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。 (Ⅰヨハネ4:18)」

あぁ、そうか、

怖かったのかもしれない

恐れがあったんだ・・・


と思い当たりました。

怖いから、身を守るために、自分を肯定するために、周りを否定していたのかもしれない。
やはり、そうでもしなけりゃ、自分というものを保てなかったのだと思います。



けれど

その生き方にも挫折しました。
そういうのって、自分が一番苦しくなるんです。

その生き方に行き詰まって
完全に神様の前に自分を投げ出したとき

こんなボロボロな自分を愛してくれる神様を知り

その愛に満たされたとき

「もう、なにも怖いものはない・・・」

そう思えたあの瞬間

のことも思い出しました。


ちなみに、それまでの自分の愛のなさは本当にひどくて
大好きだったはずの動物や子どもまで、
どう接していいかわからないほど、「かわいい」という感情も忘れて
恐れていました。(重症・・・)


それが、しだいに回復されて、

何かを愛でることを思い出していった

その感覚も、よく覚えています。


「私たちは愛しています。
神がまず私たちを愛してくださったからです。(Ⅰヨハネ4:19)」

このみことばは、本当だなぁ、と思います。

「神は私たちに御霊を与えてくださいました。
それによって、私たちが神のうちにおり、
神も私たちのうちにおられることがわかります。 

私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、
今そのあかしをしています。 

だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、
神はその人のうちにおられ、
その人も神のうちにいます。 

私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。
神は愛です。
愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。 

このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。
それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。
なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。
(Ⅰヨハネ4:13−17)」


中学の時に洗礼を受けていましたが、

本当に心から信仰を持ったのは、たぶんあの時だと思います。

このみことばを心の奥底から「そうだ、アーメン!」と言えるし

言えるようになってから、私の人生は確かに変えられていきました。

今も変えられている途中だと思います。



だんだんと、人のいろいろが気にならなくなりました。

たぶん、人を否定しなくても、自分の考えや感覚と違っても、

自分を保てるようになったんだと思います。


どこか
「自分はこれでいいんだろうか」
「自分は間違っているかもしれない」
と思っていると、
自分という土台が揺らぐような感覚があるかもしれません。

別に、今の自分が完全だとは思わないけれど

神様は、こんな自分も愛してくれるし、
間違っていたら正しい方へ導き変えてくださる
と信じられるから、
今は「ま、いっか」と思うのです。

「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。
目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。 
神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。
私たちはこの命令をキリストから受けています。  (Ⅰヨハネ4:20-21)」

そうか、これは命令なのね・・・
と、読んで改めて思いました。

自分をあんな状態から救ってくださり
とことん愛してくださる神様に
自分はなにができるだろう?

言い尽くせない感謝をもって、神様に従い、喜ばれるようにしたい

できれば、「目に見えない神を愛」したい。


じゃあ、

兄弟を「憎まない」ところから

はじめてみようかな


他人のいろいろを、

否定し…ない

ゆるさ…なく…ない


というところから、やってみようか



そんなかんじで、

少しだけ

今までのあり方や、スタンスや、ベクトルを

変えてみるのもいいんじゃないかな、と思うのです。



なにかが・・・・変わるかもしれない。


=お知らせ=

CCM交わり会を開催します。

20〜50歳くらいまでの若き(?)クリスチャンの集いです。

クリスチャンの結婚、婚活、クリスチャンライフなど、
同年代で話したい、でもなかなか話せない、ことを
ゆったりまったり分かち合い、交れたらいいなと思います。

簡単なドリンクとデザートをご用意してお待ちしています。
(差し入れ、大歓迎)

日時:5月27日(土)14:00~16:00(予定)

場所:北方キリスト教会別館<しおん館>
(岐阜県本巣郡北方町芝原東町1-10)
電車でお越しの方は、JR穂積駅へ送迎します。事前にご連絡下さい。

参加者:20〜50歳くらいまで独身クリスチャンの方、求道中の方、カップルの方、既婚クリスチャンの方、
是非お越しください♪

参加費:500円

お申込みはこちらから↓
https://ws.formzu.net/fgen/S2250328/

2017年4月26日水曜日

愛知でクリスチャンお見合いイベント!!【P&A】

6月に
愛知県愛西市で
クリスチャンのお見合いイベントがあるそうですよ!

【第18回 P&A プリスカとアキラの会】

P&Aでは、第18回目の集会を企画いたしました。
讃美、聖書朗読、祈り、証の後、テーマトーク、1対1での自己紹介、フリートークなどを通して交流を深めます。
どうぞ奮ってご参加ください。

日時:2017年6月10日(土)PM1:30~4:30
場所:愛知県愛西市 佐織公民館2階 視聴覚室
会費:800円(場所代、茶菓代、事務費として)

*真面目に結婚をお考えのクリスチャンの方、どなたでもご参加ください。
*教派を超えた出会いの場として御考えください。
*プライバシー保護のため、電話番号やアドレス交換は、スタッフを通して行います。
*参加ご希望の方、またご質問のある方は下記スタッフまでご連絡ください。
日笠さん
yoshiehikasa2025@yahoo.co.jp
古橋さん
pisuga@ayflute.com

☆準備の都合上、一週間前を一応の締め切りとさせていただきます。

P&A協力
名古屋福音自由教会、日本キリスト改革派津島教会

結婚を祈るクリスチャンの貴重な出会いの場ですね♪

こうして、協力できること、感謝です(^ ^)

是非ー!

2017年4月24日月曜日

5/27(土):CCM交わり会 in 岐阜開催!!

久しぶりに
CCM交わり会を開催します。

20〜50歳くらいまでの若き(?)クリスチャンの集いです。

クリスチャンの結婚、婚活、クリスチャンライフなど、
同年代で話したい、でもなかなか話せない、ことを
ゆったりまったり分かち合い、交れたらいいなと思います。

簡単なドリンクとデザートをご用意してお待ちしています。
(差し入れ、大歓迎)

日時:5月27日(土)14:00~16:00(予定)

場所:北方キリスト教会別館<しおん館>
(岐阜県本巣郡北方町芝原東町1-10)
電車でお越しの方は、JR穂積駅へ送迎します。事前にご連絡下さい。

参加者:20〜50歳くらいまで独身クリスチャンの方、求道中の方、カップルの方、既婚クリスチャンの方、
是非お越しください♪

参加費:500円

お申込みはこちらから↓
https://ws.formzu.net/fgen/S2250328/



2017年4月22日土曜日

人生のパノラマ

実は、若かりし時・・・演劇の世界でプロになりたいと思っていました。
そのために、いろんなワークショップに参加して、いろんな種類の演技メソッド(方法)を学んだりしました。

お芝居の中で、役を演じるときに、その役の人物の人生を考えます。
演じるシーンは一部だとしても、その役の人の生まれた時から死ぬまでを考えます。
その役、つまり他人の人生を思い描くために、
まずは自分の人生を考える・・・という演劇的訓練がありました。

つまり
人生のパノラマ図を見るのです。


けれど、
私たちは、自分の人生については
自分の生きてきた時間までしかわかりません。
未来のことは、はっきりと描くことはできないのですよね。

でも、想像することはできる。
なんとなく、わかっていることも、部分的にある。
たとえば、・・・死ぬ、とか。

「人は一度死ぬことと、死んだ後さばきを受けることが定められている」
(ヘブル9:27)

みなさんの、人生のパノラマ図はどうですか?
そのパノラマは、どこまで続いていていますか?
そのパノラマには、終わりがあるのでしょうか?


人生のパノラマ図の描き方で、
人生観も結婚観も随分変わるんじゃないかなと思うのです。


黙示録を学んでから、私の人生観は変わりました。
私の人生のパノラマ図には
始まりはあるけど、終わりがない・・・!


つまり、こんな感じです。

神様に私の存在が見出されて、
肉体を持ってこの世に生まれ出て、
両親や家族や色々な人に育てられ、
中学の時に洗礼を受けて、
高校卒業とともに10年くらい信仰を離れて放蕩して、
30歳手前でボロボロになって信仰を取り戻して、
岐阜に戻って婚活して結婚して、
新しい家族ができ妻として生きるようになり、
CCMやANNIというミニストリーが与えられて、
岐阜から埼玉に移住して(イマココ)、
その後たぶんいろいろあって、
いつか肉体の死を迎えて
おそらく天にあげられて
神様にお裁きをいただいて
栄光の中で永遠の平和と平安のなかで生き続ける。
ずっとずっと・・・
そこには、すでに先に天にあげられたであろう祖父母たちがいて
地上に産まれることなく先に天に帰っちゃったタマちゃんもいて
地上で出会ったいろんな方達もいて再会して・・・
聖書に出てきたいろんな人達もいて・・・

・・・
もう、そう考えると、楽しみでしかないのです、未来が。

肉体が死んだ後にも、
生きてた頃よりもっと素晴らしい未来が待っている。

だから、先のことは心配いらない。

だから、今できることを、恐れず頑張ろうと思えるし、
今は今で、
地上に存在して息づかせていただいている意味、召命、役割があると思うから、
それをできるだけやりたいな、って思うし
それはきっと、人に継いでいく何かだと思うから
人の助けになれることがあったら、そこに手を差し伸べたいなと思うし、
今だから感じられる神様の素晴らしさとか、神さまが創ったものの素晴らしさとか
御業に触れての感動とかあると思うから、
それを存分に楽しみたいとも思う・・・わけです。


かつて、信仰から離れていた時、
死ぬのが怖くて、体が生きて元気な間になんとか幸せになりたい!成功したい!
と、とにかく生き急いでました。
いつも焦燥感に駆られて、イライラしてて、そのわりに空回り。
待つことができなくて、何もしない時間が怖い。
虚しくて、悔しくて、怖くて、絶望していたように思います。

今は、なんだかゆったりと日々を過ごし、
神の時を待つ、ということも覚えてきました。

死生観、人生のパノラマが変わるだけで
こんなにも違うのか・・・と思わされます。


みなさんの、人生のパノラマ図はどうですか?
そのパノラマは、どこまで続いていていますか?
聖書を土台に、描いてみるのも、いいかな、と思います。




2017年4月20日木曜日

エンジンとガソリン

旦那さんは、私のことを「チャッカマン」と呼びます。
急に火がついたように怒り出すからだそうです。
旦那さんにしては急なんでしょうが、私からしたらちゃんと怒る理由ときっかけがありますし、それ以上言ったら怒るという予告も出しているのですが、彼には察知できません。
(これが、男と女・・・なのか?)

チャッカマン・・・から発想が広がり
こんなことを思いました。

男性はエンジン
女性はガソリン

女性は、体調の変化により感情の起伏が不安定なところもあるので、ちょっと火がついても爆発してしまう・・・まるで油のように
でも、ご飯作ったりサポートしたり男性を助ける役割もある・・・エネルギー源にもなる

そしたら、まるで、男性はエンジン
力強く、一家を動かすための機能も備えている


でも、エンジンだけじゃ、車は走らない。
ガソリンがないと、エンジンは動かせない。
ガソリンだけでも、なにもできない。力強く目的のところまで行く力はない。

まるで、男性はエンジン、女性はガソリン、あわせて一つの車のようだ・・・と
思ったのです。

でも、エンジンとガソリンだけがあっても、うまくは前に進めない。
全体をコントロールするプログラムと、ハンドルと、それを操作する人も必要

だとしたら・・・

プログラムは聖霊、ハンドルはイエス様、操作するのは父なる神

なんちゃって



と、思ったのです。



いかがでしょう?



追伸、5月末にCCM交わり会を計画中。
詳細決まり次第、また告知します♪

2017年4月18日火曜日

「自由意志」と「善悪の知識」

最近、友人と、一緒にデボーションすることを目的に
小さな学び会を始めました。

社会人になると、忙しい生活の中で、なかなか一人でデボーションが続かなかったりします。でも、本当は、聖書に触れ、ぐっと読んでみる機会がほしい。
そんなわけで、月一で数章ずつ読み、ガイドを元に理解し、分かち合うということを始めました。
楽しいです。

さて、創世記の冒頭を学びながら
「自由意志」と「善悪の知識」の違いについて
すごく考えさせられました。

アダムとエバは、神が食べてはいけないと言って禁止した“善悪の知識の木”の実を食べました。
蛇(サタン)の誘惑をきっかけに、神の命令を破ることを選び、
神のように善悪を知るようになることを望んでしまったのです。


ここで、きっとこう思う人もいるかもしれません

「どうして、善悪を知ってはいけないの?
善悪を見極められるから、正しいことができるのではないか?」



どうでしょう?




一見、おかしくない、気もしますが、
これ・・・ほぼ、そのまま蛇の言った誘惑の言葉ではないでしょうか?
うーん、
これこそが、罪の思考の“種”のような気もします。

人は
「自分で善悪を知る」・・・に、とどまりません。
それは「自分で善悪を決める
ひいては「善悪の"基準"を決める」になっていきます。

アダムとエバも「その実は食べてはいけない」という基準を
自分たちの中で「その実は食べてもいい」に勝手に変えて、決めて、
そして食べてしまったのです。
もう、、、それはそれは一瞬で・・・。

「善悪の基準を決める」のは、神様だけが持つ権利であり、神様の権威です。
人のものではないのです。
つまり、もし私たちが勝手に善悪を決めたら、それは“越権行為”になります。
よって「自分を神のようにする」という、おそろしいことになります。

そして、
神が与えてくださった自由の中で、私たちを祝福するために与えた命令を守れなかった人類・・・
神との約束を破り、神に背を向けてしまい、神との関係に亀裂が入ってしまった人類・・・
そんな人類が、正しく「神の定める善悪」を見極めることができるでしょうか?

聖書に書かれた記録は、神との約束をまもれず、善悪の判断も間違えまくる人類の事件のオンパレードです。
とても、正しい善悪を知り判断できるとは思えない・・・。


もう一つ、私たち人間が、ちょっとだけ勘違いしていることがあるんじゃないか
と思うのです。
それは
「与えられた枠組みの中で生きることは、不自由で、不幸せだ」
「自由とは、選ぶ、決める権利を持つことで、
選べること、決められること、それこそが人の幸せなのだ」
ということです。


これって、本当でしょうか?

私たちには、創造の初めから自由意志が与えられています。
でも、
なにかを選択できるから幸せなんじゃない。
選択した先がよいものだから、幸せなんです

選択した先が悪いものだったら、幸せではないですよね?

でもどうしてそう思ってしまうのか、
そこには、自分は必ず良いものを選択できるはずだ、という奢りが隠れていルノだと思います。
だから、きっと勘違いして、「自由意志」と「善悪の知識」がワンセットにされてしまうのではないかと・・・。

でも、人は、間違えます。100%正しく判断は、できないです。

じゃあ、どうしたら幸せか?といえば、
神様が示す「必ず幸せになるよ」という道を、自分の意思で選ぶということだと思います。
なぜなら、その選びの先が「幸せなもの」だともう決まっているからです。

自由意志の1番の活かし方は
神の示す選択肢を自らの意思で選ぶこと、ではないでしょうか。
神さまが与えてくださるもの、与えてくださる枠組みの中で、自由意志を用いる。
これが、ベストで幸せな形、なのではないかと思うのです。



なんで、こんなことを、こんこんと語っているかというと、
婚活においても、似たことが言えると思ったからです。

自分にとってベストな人を、自分でわかっていると思うのは
自分に「善悪の知識」があり、判別できるという思いなのではないでしょうか。
自分で判断し、自分で決め、「ああいう人がいい、こういう人がいい、こういう人はダメ」と条件を並べ立てていく…。

それって、本当に正しいのだろうか?あっているのだろうか?
その「知識」は神様の御心と本当に同じなのだろうか?


一方、目の前に置かれた人が、神様が示す道であるかもしれないと信じ、自分の意思で受け取っていく・・・
神様の与える枠組みの中で自由意志をもち、悩んだり信じたりしながら進む・・・

まさに、この方法で結婚していったカップルを本当に何組も見てきました。
そして、どのカップルも、
苦労がないわけではないけれど、とても幸せそうで、安定した平安があるように見えます。

私たち夫婦も、こんな感じで結婚に導かれ、5年目となります。苦労もあるし事件も起こる、基本的に平凡な家庭ですが、本当に幸せです。


より幸せな生き方、幸せな人生の進み方のヒントは
聖書にあると、私は確信しています。

神のみ言葉をともしびにして、
聖書が示すことを選びとって、
未来へと歩んでいけたら、
本当の幸福はそこにあるんじゃないかなぁ、と思います。

私自身も、それを祈り求めていきたいなぁ、と切に願っています。




2017年4月16日日曜日

クリスチャンとノンクリスチャンとの結婚

クリスチャンとの結婚を祈っているという方がほとんどのCCMですが
「絶対そうあるべき」とうたっているわけではありません。

けれど、想像以上の、クリスチャンとノンクリスチャンとの結婚の難しさ
について、最近考えさせられたので、少し書いてみようと思います。

自身がクリスチャンで、ノンクリスチャンの方と結婚する…
もちろん結婚前に、結婚しても教会へ行き続けたいこと、できれば一緒に行って欲しいこと、願わくば信仰を持って欲しいと祈っていること、を伝えてあり
お相手も理解し、わかったと返事をします。

けれど

何につけてもですが

結婚したら、本性がでる

結婚前は、結婚したいから、好かれたいから、いい関係を保ちたいから
いい返事をする…ということもあります。
いい返事をもらえれば、相手は自分に賛成しているようにみえるでしょう。

けれど、これは、けして「賛成しているわけではない」のだそうです。
つまり、価値観が同じになっているわけではない、場合もあるということです。

もともとノンクリスチャンで、母(クリスチャン)との交際をきっかけに
クリスチャンになったという私の父
(納得して受洗しクリスチャンになってから結婚しましたが)

母と付き合っていた頃、
クリスチャンである彼女に対してどう思っていたかというと

「反対しないだけいいだろ」
「君の価値観に、反対はしていないじゃないか」

…だったそうです。

でもこれは、同じ方向を見ているというわけではないですよね。

「反対していない」
そして、「賛成もしていない」

これは、実際は、反対しているのと同じこと
とても「同じ思いだ」とは感じられないものですよね。
聞いたら寂しさ、悲しさが伴います。

反対しない
興味がない
関心がない

は、賛成している、同じ方向を見ていることにはなりません。

そして、
いつでも、違う方向に走りだす可能性があるのです。

なにか気に入らないことが起きた時
「反対しないだけいいだろ!」に潜む小さな鬱憤が爆発する・・・。

その時、はじめて、二人の間の認識の違いに気づく・・・

思いの外マイナスからのスタートだったのだかもしれない、
想像以上に長い険しい道が待っているのかも…、と感じるのです。


でも、それでも、
神様がその結婚をゆるし、成し遂げられたのなら
そこにご計画と、その人に対する召命があるのだと思います。

だから、否定はしませんし、
すべてのノンクリスチャンと結婚しているクリスチャンのために
その信仰が守られ勇気と忍耐が与えられるようにと、心から祈ります!
本当に本当に、心から祈ります!!!


もちろん、教派の違い、信仰スタイルの違いにおいても、
似たような「のちのちのすりあわせ」は必要だったりします。

けれど、同じ聖書の、同じ神を信じているという価値観は
ある、ない、だけで大違いだということです。
性格の不一致では共存できても、この価値観の違いは共存しがたいのです。
聖書の神を信じ、イエスキリストの十字架と死と復活を信じるという信仰は
人生の根幹に当たる価値観です。
これを捨てたら、人生の生き方はまるで違う。
これをもったら、人生の生き方はまるで変わる。
「信仰」とはそういうものなはずだ、と思うのです。

教団・教派とか、礼拝スタイルとか、つかう聖書の違いとか、賛美のスタイルとか
そういう表面的なことではなくて
もっと根本的な「信仰」というアイデンティティーについて
あらためて確認してみるのも、大切かもしれないな、と思います。


2017年4月14日金曜日

失言も乗り越えられる関係

4月になると
はじめて旦那さんと会い、あちこち行ったことを思い出します。
私たちの出会いはお見合いで、4/1でした。春の良い季節に出会ったので
デートであちこちいくのは楽しかったです。

お付き合い
婚約
結婚準備
結婚式
結婚生活・・・
を振り返ってみて思うのは

お互い、たくさんの失言も失態も失敗もあった(今もある)ということです。
それを「エ!?」とか、「イヤだな」とか、「なんだよ!」とか、思ったり思われたりもします(今もある)
でもそれでも、それが「一緒にいよう」という思いを超えることはなかった
話し合ったり、ゆるしたり、ゆるされたり
で乗り越えてきたわけです。

もしこれが

少しでも
失言してはいけない
失態、失敗したら壊れる
そういうものなら、
はじめから結婚とか、ありえない・・・と思うのです。


婚活や恋愛アドバイスの
「あれやっちゃだめ、これやっちゃだめ論」
を見るたびに感じていた違和感は
多分これだと思います。

お付き合いの段階で、がんばって失言、失態をしないよう気をつけられたとしても、
結婚したら隠し切ることはできません。毎日一緒にいるし、それが30年40年とつづくのですから。
もし、結婚してしまってから、受け入れがたい失言や失態を目の当たりにし、向き合わなければならなくなるとしたら、結婚生活のスタートはいきなり辛いものにならないでしょうか?
それとも、例えそうでも、とにかく結婚できればいい!とすすめるべきなのでしょうか?


失言と思うポイント、思わないポイント
聞いて傷つくポイント、傷つかないポイント
見てイヤだと感じるポイント、感じないポイント
そういうものは、人によって違います。
体臭や匂いのように、それがムリ!て思う人もいれば好きと思う人がいる
ということに似ています。

だから

自分のパズルのピースに合うピースの人を探す、出会う

なんとなく

究極的には

これに尽きるのではないかと思うのです。



けれど
他人の多くをゆるせない心というのは
婚活を困難にするだろうな、と思います。

自分の多くをゆるされた
その恵みと愛を本当に確信し実感するなら

たぶん
婚活に関わらず
ひとの多くをゆるせたり、批判せずに見守ったり受け止めたり
できるはずなんじゃないかな、
と思うのだけど…


婚活を重ねるごとに
人を見る目が厳しくなっていったり
壁が高くなっていくのは

婚活を重ねるごとに
傷つき、否定、批判されたように感じて
ゆるされる恵みと愛の実感から遠ざかり
人をゆるせない気持ちが増してしまう
からかもしれない

だとしたら、

そのたびに、信仰に立ち返るのが一番だと思うのです。

神はあなたを愛しゆるしてくれたこと
人がどんなに否定しても神は受け入れてくれること
人は離れていっても神は共にいて独りにしないこと

ここからしか、真のエネルギーは得られないのではないか

と思ったりします。

2017年4月12日水曜日

婚活に成功法はあるの?

婚活についてのいろんな話をたくさんきく
ちょっとネットで検索すれば、たくさんの情報がでてきます。

そのほとんどは、婚活で成功するにはの方法論だと思います。

これをしたら失敗した。こうすると上手くいかない。
あれをしたらダメ、これをしないほうがいい・・・。
失敗例のオンパレードです。

ふと思うのです。
うまく行った例をあつめたら
違うデータが出てくるのではないか・・・?

失敗の反対は、・・・成功・・・なのか?


こんなとき、
聖書のことを思い返してみます。

モーセの律法の禁止令は365個、そして命令が248個の計613個あるそうです。

律法の禁止令は、これをしたら失敗…というよりは、
これをしないことが成功である、というニュアンスが強いような気がします。

ちなみに、
この律法を、受け取った民は、結局律法を守ることができませんでした。

ニンゲンの歴史は
こうしてはいけない
をことごとく破る歴史です。

罪の始まりは、
食べてはいけないを食べたこと、でした。(創世記3章)

これは、
罪の本質の一部かも知れません。
だとしたら、
人に罪がある限り
してはいけない、は、してしまいがち
なのではないか?と思うのです。


信仰が働くのは
神のすすめること、奨励を
自分の意思で選び、信じて、
そのようにするとき、だと思います。

信じなさい
に対して
信じる

愛しなさい
に対して
愛する

イエスを信じなさい
を、素直に信じる

けれど、
イエス以外を信じちゃダメ
と受け取ったら、急に
信じるのが難しく感じませんか?
(これが、受洗するかしないか迷う人の心理のような気がします)

罪には際限がありません。
これをしたらダメ論はいくらでも語れるでしょう。
でも、それを集めても、必ず成功にいたるのでしょうか?
婚活本が次から次と出版され、婚活業界がこれほど盛り上がるのは、
これはダメという方法論からは確固たる成功法がみいだせないから、のように思います。


そもそも、世界共通の婚活成功法なんて、ない。


私たちクリスチャンの救いは
救いの方法論があってそれに成功した結果なのでしょうか?
救いは自分で獲得したものなのでしょうか?

聖書は救いについてこう明言します。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2:8〜10)」

救いは、私たちの成功の結果ではないです。
救いは、神様からのプレゼントであり、私たちができたのはただ信じることです。

ここにある「良い行い」の一つに、「結婚」もあるのではないかと思う。
特に、クリスチャンで神様がその人に結婚を備えておられるなら、そうかもしれないと思うのです。

だとしたら、
結婚も、救いと同じように「恵みのゆえに、信仰によって」「賜物」として与えられるのではないでしょうか。
もし、神様が備えようとし、結婚を通して大切なことをあなたに使命として与えようとしているとしたら、むしろ
「自分自身から出」ないように、「行いによって」成らないように、「誇ることがないように」、神様が導くのではないか?
とさえ思います。

CCMに関わる、結婚に導かれていった…言ってみれば成功例を集めてみると、
共通して言えることは
「神の一方的な恵みとしかいいようがない結婚だ」ということです。
「こんなこともありえるの?!」の連続です。
「神様っているんだ、人にはできないことをなされるんだ!」と
見る人が思うような結婚ばかりなのです。

だから、私は信じています。

私たちの、成功失敗にかかわらず、
いや、時に失敗のようなことをしたとしても
神様が導くときは必ずそれらを超えて導く!
恵みを受けるものとしてできるのは、神とその導きと業を
最後まで信じること、信仰を握り続けることです。
恵みは神のしごと、信仰は私たちのしごと。

そもそも、信仰なく方法論を徹底したって、
うまくはいかない、と思います。

優先するべきは、一体なんなのか、
見失わないようにしたいですね。


2017年4月10日月曜日

出会いの閉塞感

どうして、こうも、人と人との関係の構築に
難しさがあるんだろう

なにをどうと考え過ぎているんだろうか

そんな閉塞感を感じるだけで
もどかしさとちょっとした悔しさを覚える。

大学で臨床心理学専攻でもあった父と時々話をする。
父はもはや父というよりも、人生と信仰の先輩だ。

・知識は壁をつくる。
・ガード(壁)を感じると相手は引いてしまう。
・愛嬌を感じる方が好感を感じる。

若き頃はモテモテだったらしい(?)彼が言う。

「そもそも、人の交流に成功も失敗もあるの?」

なんとなく、ハッとさせられる。

どんな風に話したって
自分を受け入れてくれる人もいれば、受け入れない人もいる。
全ての人に受け入れられなくったっていいじゃない?
そう思ってはいけないの?ということだ。

とくに、お見合いパーティーでは、
自分を受け入れてくれる1人の人と出会えればいいんじゃないの?

モテると出会えるは違うのかもしれない。

ふと
これは・・・伝道と似てるかも、と思った。

全ての人に受け入れられるように福音を伝えるのは違う。
福音は変わらない、変わってはいけない真理。
それを受け入れる人もいるし、受け入れない人もいる。
でも、福音はこれだよ、と知らせる、証する・・・
それが伝道=道を伝える、ということ。

全ての人に救いは提示されている、
でも受け入れるかどうかは提示された人に委ねられている
自由意志があるのだ。

でも、提示された人に必ず受け入れられるために
「救い」が形をかえることはない。
「救い」の方法はたった一つ。


自分という存在も、オリジナル。
そのキャラクター、持っているものは、本質は変わらないし
変える必要もない。それは神様が創造されたのだから。
それを受け入れる人もいるし、受け入れない人もいる。
でも、私はこうだよ、と知らせる。
それが、自己紹介、自分を証するということ。

多くの人に、あなたという存在…神の作品が提示される
でも受け入れるかどうかは、提示された人に委ねられている
それは、提示された人の自由意志。

提示された人に必ず受け入れられるために
あなたが形をかえることはない。
あなたは、あなた。たった一つの存在。神のオリジナル作品。


このことを、お互いにやりあうのが
「お見合い」なのだと思う。
もっと平たく言えば「人と人との出会い」なのだと思うのだ。

その先の、人と人との関係性、距離感はいろいろだ。
とても身近な友達となることもあれば、
ただの知り合いになることもあるし、
唯一無二のパートナーになることもある。
それは、どの関係がいいとか悪いとかということではないと思う。
そこに、平和があれば、ベタベタくっつく必要もないし、不必要に距離を取ることもない。


私は、
その人のキャラクター、神様から与えられたもの、賜物、
つまり神の作品としての本質が
人に受け入れられるために、変えなければならない、
としたら・・・、
なんだかそれは、悲しい考え方だなと思います。

だって、それに、そんなの、できないし・・・

演じたとしたって、長い結婚生活=人間関係の中で絶対バレるし・・・

そんなことよりも、
神が私をこのように創られたのなら、
その私に合うように創られた人が
きっとどこかにいるかもしれない
その人に出会いたい!という
そういう信仰をもって祈り、行動する方が、
ずっと有益なのではないか・・・

と、思ったりする。

こうあるべき論は人を幸せに導くのか?
閉塞的な空気をつくっていくのではないか?

そんなことを、実は、ひそかに、思ったりする。





2017年4月7日金曜日

祈りあった日を思い出しながら

今、埼玉から名古屋に向かっている電車の中で
これを書いています。

CCMに初期の頃から参加してくれていた方の
結婚式に参列するために、
向かっています。

本当に嬉しく思いながら
その方との数年を振り返っています。


交わり会によく来てくれたこと

はじめ女子同士でばかりいたのが
だんだんと交わりに入って来てくれたこと
(本人曰く、人見知りだったらしい)

積極的に、お見合いパーティーに参加していた姿

2人でお茶をしながら
婚活のこと、人生のこと、家族のことを真剣に話し合い
その中で流れた涙のこと

先のことなんか、彼女にも私にもわからなかったけれど
「でも、このためだったのか!」と思える
奇跡のような日がくるんだよ!
と、手探りながらも信じて
共に祈ったこと。

運命の人と出会った時の直感のことを
打ち明けてくれた帰り道のこと

彼を紹介してくれたときのこと

2人がどんどんしっくりしていった夏の日のこと

さまざまな試練がおそってきたけれど
確信はゆるがなかったあの夕方のコーヒーの味


多分、前日の今日、今この瞬間も
準備でバタバタとしていると思うけれど、

きっと大丈夫。

そしてこれからも

大丈夫。

それまでの道のりを知っているから

本当に何度も涙流して、それでも腐らずに
誠実に、まっすぐに、祈り続け行動し続けてきたことを
知っているから

彼との出会いが、いかに奇跡的で
どう考えたって神のみ手が働いたとしか
いえないってことを知っているから

このさきも、大丈夫。

こんな日が来ることを
あのときは想像できなかったけれど
見たことのないものを信じて歩んだ先に
目に見える形で表されるんだ

ということを
あらためて、教えてもらった。

それは本当に素晴らしいもので

あのときの私には想像できなかった。

明日は、それを、しかと見に行きます。


婚活サポーターとして、これ以上のご褒美はないな
幸せものだな、と思いながら

電車に揺られております。


2017年4月5日水曜日

クリスチャン婚活にオシャレは必要か?

ふと気づくと
「めんどくさい・・・」
と、ノーメイクにダボダボヨレヨレの服を着て、外に出て
夕飯の食材を買いに行ったりしてしまいます。

「いかんな・・・」

出てしまってから、やっぱりそう思って反省・・・。

そして、夫のエピソードを思い出す。
主人がまだ結婚する前、女友達(完全に友達)と飯でも食うか、となったとき、
女友達が毛玉のついたジャージで待ち合わせに登場、その服装でレストランへ入っていった。「女としてはドン引きだわ」と思ったそうです。

「このままでは、ジャージでレストランになってしまう」

基本ぐーたらで、オシャレも何も興味はないのだが、
自分をちょっとだけ奮い立たせます。


クリスチャン婚活で、オシャレは必要だろうか?
クリスチャンにとって、オシャレは必要なのだろうか?

オシャレ・・・の意味するところにもよるけれど、
「身なりを整える」ということに関して、聖書は決して否定していない。
いや、おすすめしているように思えます。

旧約聖書のモーセを通じてイスラエルの民に与えられた律法の中で、
祭司の身なりについてはかなり詳細に規定されています。
“ 彼らの作るべき衣服は次のとおりである。すなわち胸当、エポデ、衣、市松模様の服、帽子、帯である。彼らはあなたの兄弟アロンとその子たちとのために聖なる衣服を作り、祭司としてわたしに仕えさせなければならない。(出エジプト28:4)”

神の前に、民の代表として仕える者は、そういう者として
身なりを整えるようにと神様から言われているのです。
ちなみに、祭司となれるのは男性。(男性も身なりを整える必要が書かれている)

イザヤ書には
“わたしは主を大いに喜び、わが魂はわが神を楽しむ。主がわたしに救の衣を着せ、義の上衣をまとわせて、花婿が冠をいただき、花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである。(61:10)”
とあります。
ふさわしい身なりで、ふさわしい装飾をつけ、飾られて、主を喜び神を楽しむ、のだそうです。もちろんこの身なり装飾はリアルではなく比喩表現だけれど、
少なくとも汚いみすぼらしい格好で神を喜ぶのではないようです

  
マタイ22章におもしろい例え話があります。
“ 天国は、ひとりの王がその王子のために、婚宴を催すようなものである。
・・・王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、 彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた。
そこで、王はそばの者たちに言った、『この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。”
婚礼の席には礼服をつける!でないと、追い出されてしまします。
TPOに合わせてあるべき身なりを整えるべき、ということが描かれています。

よく身なりで取り出されるみことばが
“ また、女はつつましい身なりをし、適度に慎み深く身を飾るべきであって、髪を編んだり、金や真珠をつけたり、高価な着物を着たりしてはいけない。(第一テモテ2:9 )”
よーく見ると
「適度に慎み深く身を飾るべき」とあります。
身を飾るなとは書いていないのです。
過度に着飾るのはおかしいけれど、「適度に身を飾る」ことはすすめられているのです。

オシャレは面倒臭い。
だから、しない。
似合わない気がする。
だから、しない。
私はこれでいいのだ。
だから、しない。

けれど、適度に身を飾る、ふさわしい身なりをする、ということは

時に備える、ということでもあるのではないでしょうか。

そう、マタイ25章の「十人の花嫁」のたとえ話を読んでいて思うのです。

“天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。
娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。”

備える・・・のは、事前にやってこそ、備える、なのです。
わたしたちは「その日、その時を知らない」

この例え話は、終わりの日について、キリストの再臨についてだけど、
私たちの人生の「時」についても同じことが言えると思います。

未来の結婚相手は、いつ現れるかわからない。
いつ運命の出会いがあるかはわからない。
だから、「備え、整えて」おいたほうがいいのではないでしょうか。
心も、身なりも。

素敵な人に会えたら、身なりを整える・・・ではたぶん遅い。

身なりというのは、人の目に大きなインパクトを与えます。

そして、身なりはその人の中身の表れ、ということも言われますよね。

ちなみに・・・バプテスマのヨハネは「らくだの毛衣に腰に皮の帯」というすごい格好をしていたけど、素晴らしい人だったじゃないか、という人がいるかもしれないけれど、
あれは、ヨハネの預言者としての正装です。旧約の時代に預言者エリヤがしていた格好で、そのことをイスラエル人は皆知っているから、一目見てヨハネをすごい預言者なんだ、とわかった、いわばしるしとなっているのです。


オシャレはめんどくさい。

でも、自分に似合い、自分らしく、自分を表現する身なりを
しっかり整えておくと、いいのではないかな、と思います。

できれば・・・

花嫁姿、花婿姿がとてもじゃないけど想像できない・・・
という身なりは、やめておいたほうがいいかもしれないですね。

私も、身なりを整えて、シャキッとしていたいと思います。


2017年4月3日月曜日

どうして結婚したいのか?

結婚についての働きをしている・・・という話をすると
「結婚したほうがいいってことですよね」というニュアンスを感じるときがあります。

けれど、本音を言えば、絶対結婚しなきゃいけない!とも、思っていません。

「一人で生きていく」と決心する。
これって、むしろすごい強いな、と私は思います。


私の場合は、かなり早い段階で
「一人では生きていけない、絶対にムリ!」という自覚がありました。

友達も、先輩も、恩師も、尊敬する人も、恋人も、
私の人生には踏み込んでくれない。私に対して責任は負ってくれない。
人は損得で、私を切り捨てたり見放したりするものだ、と思っています。
そして、私はこの孤独に耐えることができません。
神様がいる。決して私を1人にはしない。その通りです。

でも、神様以外に、家族以外に、
自分の人生にとことん一緒にいてくれる人が
一人でいいから欲しい!!

それが、私が婚活を始めた動機でもありました。
私にとって、本当に命に関わる問題でした。

このことに本気で向き合い、真剣に祈っていったとき
婚活でのパートナーの条件は、自然と絞られました。
ルックスや、肩書きや、何をしている人か、ということはほとんど気にしていなかったのは、このためだったと思います。
結果、神様は、本当にベストな人と出会わせてくださいました。
気性の激しい私を、とんでもなく広い懐で受け止めてくれ、絶対に私を見放さない人が
今私のそばにとことんいてくれます。彼以上の人はたぶんいない、と思います。本当に感謝です。

でも、
言っておきますが、
結婚すれば無条件の幸せが待っているわけではありません。
もっと言えば、結婚したら苦労は増えます。
他人同士が家族になるのですから・・・。

苦労は増える。
結婚は、1人ではあり得ない苦労と祝福をセットで引き受けることなのかもしれません。



勝ち組、負け組・・・なんて言葉がはやったこともありましたね。
でも、そもそも、結婚しなければいけない、ということはないんです。
すべての男女は結婚しなければならない、なんて聖書は命令していません。
(そんなこといったらパウロはどうなってしまうの・・・?)

そして、
結婚するしない、というのは、
必ずしも、その人の人間性と関係あるわけではないと思うのです。
結婚しなければダメな人間、てことでもないと思います。

私はこの5年、ずっと妊活をしています。
子どもが与えられるように祈りつづけていますが、与えられません。
はっきり言ってものすごい時間とお金と労力をかけて妊娠するよう努力もしました。
けれど、与えられないのです。
周りはどんどん妊娠出産していきます。心が乱れます。
自分が人としても女としても欠陥があるように思えて泣けるときがあります。
でもね、子どもができなきゃ、人としてダメなんでしょうか??

私が本当に生まれたときからお世話になっている、かわいがってくれた
子どものいないクリスチャンのご夫婦がいます。
私はその人たちのことを欠けた人たちだと思ったことは一瞬もありません。
心から尊敬し、大好きな人たちで、神に愛されていることがわかるご夫婦です。

聖書の中にも不妊の女たちが出てきます。彼女たちの姿に本当に慰められます。
神様が彼女たちを祝福しなかったわけではないということは、聖書を通してわかります。
いわずもがな、生涯独身であれほど神に仕えたパウロをダメな人間だと言えるはずもありません。


ちなみに、日本で言えば、
江戸時代の庶民の婚姻率ってどのくらいだったかご存知でしょうか?

なんと・・・5割、なのだそうです。

庶民の半分しか結婚しなかったわけです。

この時代、庶民が家を継ぐとか、苗字を継ぐとか、土地を継ぐとかということもなかったので、結婚する意義もさほどなかったのでしょう。
しかも、庶民ですから、働いて働いて年貢を納めて、一生を終える。
わざわざそんな生活を子々孫々までやらせたい・・・と、思うでしょうか。

この話を聞いて、

あらためて、「なぜ結婚を祈るのか」ということを考えさせられました。

結婚は、したいからするのか?
なぜ、結婚をしたいのか?するべきだと思うのか?

その動機を、ちゃんと持つことは、大事なのではないでしょうか。

人間は、自分の内側から湧き上がる動機によってしか行動することができません。
仮に動けたとしても、そこに強さはありません。大事な決断も、できません。

この課題に、目を背けずに向き合うべきだと思っています。

今の忙しさとか、目の前の楽しさに目をとられるのではなくて
ちょっと立ち止まって、本気で考えてみる。

そして、もう一歩踏み込んで、

神は私に結婚を通してどのようなことを願っているだろうか?

そんな視点からも、自分の結婚、婚活の動機を、考えてみてもいいんじゃないかな、
と思います。

2017年4月1日土曜日

「仕事」がクリスチャン婚活でも大事な理由

婚活の場(お見合いやパーティー)で、
相手の仕事(職業や働き方)が必ず紹介項目の一つとして取り上げられます。
どんな仕事を、どのような姿勢でしているか、ということは
クリスチャンの婚活においても、ないがしろにはできない・・・というのが現状です。


話は変わりますが、私は「労働」が大嫌いです。
「はーたーらーきーたーくーなーーいーーーー!!!」
と思いながら、仕事をしてしまいます。
だから、仕事が好き、という人を心から尊敬します。

辛くない仕事はないと思うし、
仕事が大好きという人もそんなに多くはないかもしれません。
(と、思いたい)

けれど、クリスチャンにとって「働く」ということは
実はとても大事なことです。

パウロは「労働」について、はっきりと語っています。

“また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。
外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。(Ⅰテサロニケ4:11~12)”

クリスチャンの真摯に働く姿は、それだけで証となるし、自分の糧も守られる、ということなんですね。

“どのように私たちを見ならうべきかは、あなたがた自身が知っているのです。
あなたがたのところで、私たちは締まりのないことはしなかったし、人のパンをただで食べることもしませんでした
かえって、あなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も労苦しながら働き続けました。それは、私たちに権利がなかったからではなく、ただ私たちを見ならうようにと、身をもってあなたがたに模範を示すためでした。”

パウロは自分で仕事をしながら、福音を伝える働きをしていました。
それは、献金がなかったからではなくて、
「日々の糧のための仕事」と「福音を伝えるための仕事」を両立する姿を模範として示すためだったようです。
これは、私たちにとっても、大きな励ましですね。

そのパウロがいいます。

“私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました。ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。
こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。(Ⅱテサロニケ3:7~12)”

ものすごい説得力・・・。
パウロ・・・厳しい・・・
でも、「静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい」と
キリストの名によって命じ勧めるのです。
どれほど強い勧めであり、それほどに大事なことだということだと思います。

働くことは、すごく、すごく、大事なことなんですね。


ヘブライ語の「労働」=「アダボー」「礼拝」という意味でもあります。
もともと天地創造の時から、人は神から地の被造物を管理する仕事を任され
喜んでそれをしていました。それが「働く」ということのはじまりです。
神様に任された務めをする・・・それは、まさしく奉仕だし、神様を讃える行動です。

働くことは、礼拝でもある。

日曜に教会に行って捧げるのも礼拝だけれど、
神を礼拝することは週に一度にしなさいなんて規定は聖書にはないですよね。
本当は、いつでも毎日でも神を礼拝するべきなんですよね。
それができない人間のために、日々の糧稼ぎを横においてでも、礼拝の時間を作るようにと神さまが「安息日」を備えてくださったんですよね。
(安息日はヘブライ語でシャバット。断絶する、切り離す、という意味だそうです。)

きちんと働いているということは、クリスチャンにとって、とても大事なことだと
聖書を通して教えられます。

であれば、
クリスチャンとしての結婚、また婚活においても
大事にされるのは、当然…ということになりそうです。

クリスチャンとの結婚を望んでいる人が、
お相手の仕事について気にするのは

経済力が豊かかどうか、とか
かっこいい仕事をしているか、とか
そういう肩書きのことではなくて

労働に対する姿勢と、
その労働を神様が祝福しているかどうか、
ということです。

だから、豊かな生活をしたいから年収が気になるのではなくて
年収がその人の信仰と神様からの祝福の一つの形だと思うから、
気にするのだとおもいます。
(でも、CCMでは年収いくら以上じゃないと結婚を考えられません、という人は
ほとんど見なくなりました。)
大抵の方は「年収にかかわらず、まじめに、誠実にお仕事している人がいいです」とおっしゃいます。(その基準はもちろん人によるのだけれど…)

いずれにしても
「働くこと」は、大事。

辛いけれど、大事。

仕事が辛いのは、仕方ないのです。
創世記3章の時点で
「あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、
あなたは野の草を食べるであろう。
あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る」
と神様から宣言されちゃいましたから。

けれど、辛さはただ辛さで終わらないはずなのです。
“神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、
あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。(ヘブル6:10)”
私たちの汗と涙を、神様は必ず覚えて報いてくださると信じます。


私が独身時代に職場の人間関係に悩み、仕事が嫌で嫌で仕方なかった時、
友人に教えてもらい励まされた聖書箇所があります。

“奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。
人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、
キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、
人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。
良いことを行なえば、奴隷であっても自由人であっても、
それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。(エペソ6:5-8)”

社会の中で信仰を持って必死で働いている一人一人のために、心から祈っています。

あなたの労働が、
あなたの日々の糧だけでなく、
家族の日々の糧も支えることになる。
あなたの祝福だけでなく、家族の祝福にもなる。
あなたの礼拝だけでなく、家族での礼拝となる。

そう考えたら、
結婚における労働の恵みの広がりが
ちょっと素敵…ですよね♪



2017年3月30日木曜日

シンプルに生きる

日々生きていると、
難しいこと、
悩むこと、
うまくいかないこと、
泣きたくなること

あると思いますが、

もやもやむしゃむしゃした時には
このみことばを、ため息交じりにつぶやいてみます。

「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。
これもあれも神のなさること。
それは後の事を人にわからせないためである。」(伝道者の書7:14)

あぁ、名言(笑)


婚活していると(そうでなくても)
いろいろ言われます。
会社でも、教会でも、家族にも、友達にも
人は、人のフィルターで、思い思いのことを言って来ます。

そんなときは、このみことばを思い出します。

「人の語ることばにいちいち心をとめてはならない。
あなたのしもべがあなたをのろうのを聞かないためだ。
あなた自身も他人を何度ものろったことを知っているからだ。」
(伝道者の書7:21,22)

あぁ、名言(2度目)


考えない…ということではないのです。
考えない…のは仏教的な思想。

考える。ちゃんと受け取る。
けれど、それを祈りとして、神様にお委ねする。
わからないことを、自分に引き寄せて理解の範疇におさめようとするのではなく、
わからないなら、わからないなりに、
「わかるように導いてください」と祈り
自分ですべてを判断し裁こうとせず
ダビデでさえ詩篇で
「神よ、どうにかしてください。あなたが手をくだしてください。」と祈ったように
裁くのは神様のお仕事だから…と、お委ねして

「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」
シンプルに生きる。

そんな風に、歩んでいけたらいいなぁ、と思います。




2017年3月28日火曜日

継ぐもの

先日、義祖母の納骨式がありまして、参列してきました。

私も夫もクリスチャンホーム育ちです。

義父母、そして、義祖父母もクリスチャン、
今回知ったのですが、義曽祖母もクリスチャンだったようです。

つまり、夫は4代目クリスチャンだそうで・・・

納骨を行なった義祖母は100歳で天寿を全うしました。
大正生まれ、戦争も経験する中で、信仰をもち、持ち続けた人でした。
人柄はさておき、信仰についてはとても熱心だったようです。

なんだかんだで、育てられた義父もクリスチャンとなり、
結婚を機に義母もクリスチャンとなり、
なんだかんだで、息子(夫)もクリスチャンとして生きることを決意し、
クリスチャンの女性(私)と結婚したわけですね。

いろんな時代の中で、
いろいろありながらも、信仰が継がれていっている様子が、
なんだかすごいなぁ、と思って、墓石を見ていました。

納骨式の中で、義祖母をよく知る牧師先生が、彼女のことを少し話してくださいました。

“ 大好きなみことばは、詩篇103篇
わがたましいよ、主をほめたたえよ
わたしのうちにあるすべてのものよ 聖なる御名をほめたたえよ
わがたましいよ、主をほめたたえよ
主のよくしてくださったことを何一つ忘れるな

そして、そうあるために
いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、
すべてのことについて感謝しなさい。」(Ⅰテサロニケ5:16~17)
を心がけたい
と言っていた・・・” と。

ちょっと背中がぞくっとしましたよ。

詩篇103篇は、私がクリスチャンシンガーANNIとして最初に作ったオリジナル曲の一つでした。
https://youtu.be/dyRa8SCzcVc

そして、
Ⅰテサロニケ5:16~17は、ANNIのホームページでも「好きな聖句」として挙げているものです。
https://anni-love.jimdo.com/about-me/

葬儀の時も実は感じていたけれど、
夫との共通点やシンクロニシティはほとんどないけれど、
おばあちゃんとはかなりある・・・。

「あぁ、おばあちゃんに よばれたな」

私たちの結婚は、信仰を継ぎたいと強く願った義祖母の祈りのゆえも
あるかもしれない・・・と、つい思ってしまいました。

結婚って、ただ2人の人間が楽しく幸せになるとか、生活が支えられるとか
それだけのことではないんじゃないか、と感じています。

受けて来たものを、継いでいくには、いろんな形があるけれど
結婚というのはその軌跡を見ることができて、そこにも神様の守りと栄光が見える
なんとも美しい形のように思うのです。

聖書に、系図が長々と書いてありますが、
私はそれをたどるのが好きです。
そこに、信仰継承の軌跡を見ることができるからです。

カワセファミリーの4代目の妻として、
継ぐものとして、
どうありたいかな、なにができるのかな、と
思いを巡らすひとときとなりました。



=お知らせ=
関東で結婚を祈るクリスチャンの交わり会があります。
是非お祈りください。そして、よかったらご参加下さい♪
http://blog.livedoor.jp/believers_kekkon/archives/1024332.html

2017年3月25日土曜日

婚活は恋活ではなくて愛活

婚活というのは、
意図的に結婚を前提にした異性との出会いの場に出て行き、相手と巡り会う活動です。
具体的には、お見合いや合コン、パーティーに参加し、理想に合う人、結婚したいかもと思う人と知り合っていきます。

お見合い・・・というと、一昔前の、親が決めた相手や家同士で決まった相手、紹介された相手と結婚が決まっていく、そこに本人たちの気持ちがついてこないとしても・・・というイメージがあるかもしれません。

まるで、恋愛結婚の真逆の位置に立っているようなイメージもあるかもしれません。

けれど、
最近のお見合いは、そうでもなくて、本人たちが選ぶ結婚です。
だから、物理的、条件的に納得できれば結婚が決まるのでもなく、
とにかく、本人たちの気持ちが納得しないと結婚には至りません。

じゃあ、普通の恋愛と同じじゃない?と思うかもしれません。

そう、出会い方が意図的なだけで、ほぼ変わりません。

相手に好意を持たなければ、進まない。
お見合いだって恋を経るのだ・・・

ただ、私は、ここに一つ落とし穴があるような気がしています。

「お見合いだって、恋しなきゃ結婚できない」
と思うことで、
恋という「自分の気持ちの揺れ方」に気を取られていくのです。

この「気持ちの揺れ」がやっかいなのです。もっと言うと「恋」のイメージです。

あなたにとって、「恋」ってどんなものですか?どんな気持ちでしょうか?

キュンっとする感じ、
胸が苦しい感じ、
切ない感じ、
追い求める感じ、
欲しいと思う感じ、
試練を乗り越える感じ、
ときに泣きたくなるほど慕う感じ、
意外性をもってドキドキする感じ、
憧れる感じ、
刺激がある感じ、

だとしたら、
その恋の感情を追い求めた先に「あたたかい家庭」とか「平和、平安」
があるでしょうか・・・?

と、私は、ふと思ってしまったのです。

もし、クリスチャンならば、
めざすのは「恋」ではなくて「愛」なんじゃないかな、と思うのです。

“愛は寛容であり、愛は親切です。
また人をねたみません。
愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
愛は決して絶えることがありません。(コリント人への手紙I 13:4〜8)”

一つ一つみると、「恋」は、聖書の言う「愛」とは違うように見えませんか?

【愛】人をねたみません
【恋】嫉妬、あの人を獲得したいという思い

【愛】高慢になりません
【恋】相手にこうしてほしいと願う思い(自分は変わらない)

【愛】自分の利益を求めず・・・
【恋】自分が喜びを味わいたい

【愛】怒らず・・・
【恋】刺激や切なさ、負の感情みたいのものも求める

【愛】決して絶えることがない
【恋】いつか終わる…のも含め恋の切なさ

なんだか、むしろ、逆にあるような気もします。

だから、「恋」を味わうことと「愛」のある結婚は、
別のこととして捉えた方がいいように思うのです。


一度、お見合いのとき、パーティーのとき、結婚を考える時
自分の視点、なにが心の中で動いているのか、見返してみるといいかもしれません。

恋を求めているのか?愛を求めているのか?

聖書を土台とした結婚には、聖書を土台とした婚活がベストだと思います。
みことばが表すことを大切にすることが、良き出会いに結びつくのではないかな、と思います。そう信じたいです。


2017年3月23日木曜日

お見合いパーティーから考察

3/20の交わり会、お見合いパーティーを終え、
お見合いパーティーのオファーメールのお届けも終えました。

私ができるのは、ここまで。
ここからが、参加された皆さんの本番です。

今回は、半数がお見合いパーティー初参加の方でした。
とても新鮮な雰囲気がありました。

初めて、お見合いパーティーに参加する時というのは、
本当に緊張するし、なにがなんだかわからないので、
とにかく一生懸命やることしか考えられない・・・

その純粋さが、結果にあらわれたのが、今回のパーティーだったようだ、と
オファー全体の結果をみて思いました。

新しく来た人が、新しく来た人と繋がっていってしまう・・・

これは、婚活をずっとやってきて、何度もパーティーに参加してきた人にとっては
泣きたくなるような状況です。

けれど、「婚活慣れ」の空気はもしかしたら、相手に伝わってしまうのか、
あるいはその人の魅力の表れを妨げてしまうのかもしれません。


今回、女性の数が少しだけ多かったので、1対1トークの順番の中で、
女性だけ少し休憩時間(トーク休み)が取れました。
その間に、私と主人が彼女たちとすこしだけ交わりを持つことができました。
(休憩になっていない・・・)

とても印象的だったのは、
初参加の方たちが、なんというか、その機会を感謝を持って楽しんでいたこと・・・
「こんなに遠慮なくクリスチャントークができる、もうそれだけで満足しそう(笑)」
とか
「さっきの方とみことばを教えてもらったんで・・・」と
聖書を開いてトークしてきたという方もいたり、

この短時間(約5分)でありながら、トークを楽しんでいらっしゃる!!

主催者としては、本当に嬉しかったです。

そして、それが結果として出ていたのも、ちょっと驚きでした。
私としても、目から鱗な発見でした。

お見合いパーティーを
結婚をテーマにした「面接」の繰り返しにしない、
評価とか、見せ方とか、裏をかくとか、押し付けるとか・・・

そういうことではない視点で

結婚を前提としながら"純粋に交わり"ができたとき
きっと何かが生まれるのかもしれない、何か違ってくるのかもしれない

そんなことを思わされました。



とはいえ、オファーが多いから必ず結婚に至るとは限らない。
結婚に導かれるのは、一人と一人ですから。

ここから、神様がさらに道を開き導いてくださることを
切に願い祈っていきたいと思います。



==おしらせ===

関東版CCM
KCM(Kantou Christian Marriage)
結婚を祈るクリスチャンオフ会<埼玉・東京and more>
がいよいよ始動します!
5月13日オフ会(交わり会)開催♪
http://blog.livedoor.jp/believers_kekkon/archives/1024332.html

是非お祈りください。
もちろん、参加もOKです!



2017年3月20日月曜日

他イベント情報!

3/20
無事にランチ会&お見合いパーティーを終えました。
本当に感謝のひとときでした。

さて、

3月25日に
P&A(プリスカとアキラの会)
というクリスチャンの出会いの会があります!

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

第17回P&A(プリスカとアキラの会)
P&Aでは、第17回目の集会を企画いたしました。賛美、聖書朗読、祈り、証の後
テーマトーク、1対1での自己紹介、フリートークなどを通して交流を深めます。
どうぞ奮ってご参加ください。
日時 2017/3/25(土) PM1:30~4:30
場所 愛知県愛西市 佐織公民館 2階 視聴覚室
会費 800円(場所代、茶菓子代、事務費として)

真面目に結婚をお考えのクリスチャンの方、どなたでもご参加ください。
*教派を超えた出会いの場としてお考えください
*プライバシー保護のため、電話番号やアドレス交換は、スタッフを通して行います。
*初めて参加される方は、受付手続きのために15分早めにお越しください。
*参加ご希望の方、またご質問のある方は下記スタッフまでご連絡ください。
日笠さん→メール 古橋さん→メール

☆準備の都合上、一週間前を一応の締め切りとさせていただきます。

とのことですが、もしかしたら受け付けてくれるかもなので、是非連絡とってみてください!

P&A協力
名古屋福音自由教会、日本キリスト改革派津島教会
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
こうして、同じミニストリーをしている方々と情報を共有し、
皆さんにお届けできること、感謝です。

あらゆる機会を用いて、踏み出してみましょう♪

2017年3月19日日曜日

お見合いのあとの対応についてQ&A 2017年

お見合いのあとの対応についてQ&A
以前書いたものをリライトして再度お伝えしようと思います。


お見合いパーティーが済み、オファーメールが送られ、受け取り、
さあ!ここからが大切なところです。

この時点で、よく来る質問がありますので、
まとめてお答えしようと思います。


Q.自分がオファーした人からオファーが来なかったのですが。

A.そういうこともあります。でも、落ち込むにはまだ早い。あなたのメアドは相手に届けてあります。もしかしたら、返信をくれるかもしれません。
 お見合いパーティーというのは、相対的に判断しやすい、という特性があります。
だから、あなたを嫌いだからオファーをしない、とかではなくて、あくまで比較の中で他の人の方が印象が強かった…ということでオファーを決めたりするものです。(きっとあなたも同じようにしてオファーを決めて送ってますよね)
だから、「振られた、嫌われた」と絶望的に思わなくていいんです。


Q.自分がオファーしなかった人から、オファーが来ました。メールしたほうがいいですか?

A.是非、メールを送ってあげてください。挨拶程度でいいです。
あなたは気づかなかったけれど、その人はあなたのことをイイなと思ってくれたのです。
そこに、なにか可能性があるかもしれないし、もっとよく知ったら、あなたもイイなと思うかもしれませんよね。5分や10分で相手の全てがわかるわけじゃないし、相性がわかるわけではありません。
オファーしなかったけど、オファーをもらったから返信して、なぜかその人とだけやり取りが続いて、会うようになって、結婚に至った…なんて話も実際にありました。


Q.オファーを頂いたんですが、その人がどんなだったか思い出せません。

A.そういうことは、あります。なんといっても、たった5分くらいしか、話してないのだし。思い出せないからメールしない、思い出せないけどメールしてみる、どちらでも結構です。限りなく可能性を広げようと思ったら、メールしてみることをオススメします。



Q.どんな内容を送ったらいいかわかりません。結婚の話をしたほうがいいですか?

A.まずは、あいさつとお礼をしてください。
絶対に覚えておいて欲しいのは「メールで伝わるのは、伝えたいことの7%しか伝わらない」ということです。大事なことは、絶対に会って話しましょう。
しかし、会えたから運命の人とは限らないし、相手が同じテンションかどうかわかりません。
かつて、2度目にあった時点で、婚約の段取りを話し合おうとした人がいますが・・・・
思いっきり、引かれてしまい、そこで交流は終わってしまいました。
お互いがちゃんと同じ道を歩いているか、同じ方向をむいているかをちゃんと理解しないとその話はできません。

まずは、あいさつとお礼と、次に会う提案をしてはいかがでしょうか。


Q.1対1で会うのが怖いです。変な人だったらどうしよう。

A.今回の参加者は、ちゃんとお仕事をしており、洗礼も受けた人たちです。
とくに、男性は皆さんきちんと働いているので、ひととおりの社会性はあると思います。
それでも、心配な場合は、以下の点に気をつけて会ってみてください。
・メールで、本名を教えない。(Facebookとかで検索されないように)
・電話番号は教えない。
・住んでる住所は教えない。
・Facebookは絶対に友達限定にする。タグ付けも自動で一般公開にならないようにする。
・Facebookで友達申請がきても承認しない。

どうしても、どーーーうしても、1対1で会うのが怖かったら、牧師先生と一緒に3者面談にしてもらいましょう。

けれど、もし、あなたが30歳を超えていたら、一人で立ち向かうことを意識してほしいな、と個人的には思います。
結婚準備の一つに「自立」があります。結婚したら、パートナーに24時間365日守ってもらえるわけではありません。家庭を支えるためにそれぞれが自分の仕事に専念します。大黒柱として、家庭の中心として、それぞれ立たなければならなくなるでしょう。誰にも甘えられなくなります。
子どもができたら、子どもを守るために親として矢面にたつことになります。
いつまでも誰かに保護されているわけにはいかないのです。誰かを守る存在になっていかなければならないのです。
いつまでも教会に保護されているのではなく、教会を建て上げていく、支えていく側になっていかなければならないのです。
だから、できれば、この婚活の時期から、「自立」を意識していただけるといいな、と思います。
それに、自立してる人は、他の人に魅力的な印象を与えますよ♪


Q.複数とやり取りするのは苦手です。浮気しているような気がします。

A.とてもまじめで誠実な方だと思います。どのようにやり取りしていくかは、その人に委ねられているので、思うままにしていただければと思います。
 けれど、あえて、可能性を少しでも広げるということに重点をおいて言うとすれば、
はじめは全部の頂いたオファーに連絡することをオススメします。
べつに、オファーをもらったからといって、付き合っているわけではないのです。
そして、相手も同じように、何人かからオファーをもらい、やり取りしたりしてるわけです。
 自然と、メールのやり取りが続く人は減っていきます。だんだん「この人かなぁ〜」と絞られてきます。会う段取りがつく人もそのうちの何人かで、会ったあともやりとりが続く人は、1人くらいになります。
 はじめから、ご自分の直感を信じて、一人に絞り込む…!それもいいでしょう。けれど、その直感が、神の御心と合っている…とは限らない、ということも言えるんじゃないかなぁと、個人的には思います。



いかがでしょうか。
よかったら参考にしてみてください。

2017年3月17日金曜日

それほど多くても、網は破れなかった

名古屋お見合いパーティーまで、あと3日となりました。
うわー・・・楽しみです!
パーティーはあと一人参加できます!
エントリーはこちら→https://ws.formzu.net/fgen/S99162387/

ランチ会も参加者がふえてきてます。
カップルの方も、既婚の方も、求道中の方もOKです。
一緒にランチ食べましょう。
http://chubu-chrisitian-marriage.blogspot.jp/2017/01/blog-post_26.html

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前回の続きの聖書のストーリーから

イエス様復活の後、ガリラヤに戻った弟子たち
元漁師だった彼らは、生活の不安などから漁に出る。
漁師に戻ろうとしたのかもしれない。。。しかし、魚は一匹も獲れなかった。
絶望的になる男たち。時は夜明け。
(この状況でも、実は主の手の働きは始まっていた)
岸から声がする。どうやら目上の方のようだ。
「舟の右側に網をおろしなさい。そうすればとれます。」
舟の左側に網をおろすのが常識、右におろしたってとれないだろ。
しかし、その通りにすると、おびただしい魚がかかる。
そして、弟子たちは気づいた「(岸にいるあの人は)主です!」

このとき、獲れた魚は、相当多くて、
「網を引き上げることができなかった。」そうです。
なので、引き上げずにそのまま小舟を漕いで、ずるずると網を引いて、岸まで来るしかありませんでした。
数えてみると「それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。
それほど多かったけれども、網は破れなかった。」


大きな魚が153匹!そんな大漁って、まさに奇跡ですよね。
だって、「大きな魚が」ですよ?
例えば、営業さんが契約をとれて、なんと153件、しかもデカイの仕事の契約!
だったら、もう・・・きっと、社員全員の大歓声で会社が揺れる(笑)

祝福の大きさが、半端なかったということだと思います。

でも、
大きな祝福が与えられると、
私たちは、ちょっと恐れを感じるんじゃないでしょうか。

153件のデカイ仕事・・・やりきることができるんだろうか・・・。

けれど、聖書は語ります。
「それほど多かったけれども、網は破れなかった」

神様は、そこもちゃんと守ってくださる。

身にあまるほどの祝福を与えられて、
 それに対して自分はちゃんとやれるだろうか…

嬉しすぎるくらいの結婚の祝福が与えられても、
 自分はちゃんと結婚生活ができるだろうか…

うまくやれず、神様の恵みを無駄にしてしまうんじゃないか…

大丈夫です!!網は破れない

「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。(マタイ12章)」

神様の祝福というのは、ちょどいい。私たちにとっては、ちょっと多めに感じるくらい。
けれど、それで、ちょうどいい。

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。
神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。(1コリント10:13)」

これは、祝福についても同じだと思います。
恵みにしても耐えられないほどのものはあたえないし、
そのための道も備えてくださる。

だから、恐れずに、

未来の心配は主に預けて

喜んで

期待して

祈り願うことのために、進んでいきませんか♪



==お知らせ==
★ご参加おまちしております!
3月20日(月祝)
◎ランチ&祈り会(12:00〜13:30)
あと10人ほど参加可能!
お申し込み・詳細はこちら↓
http://chubu-chrisitian-marriage.blogspot.jp/2017/01/blog-post_26.html

◎クリスチャンお見合いパーティー(14:00〜16:00)
あと1名です!
お申し込み・詳細はこちら↓
https://chubu-christian-marriage.jimdo.com/party2016-0320/





2017年3月15日水曜日

舟の右側に網をおろす

受難節ですが、イースターも待たずに復活のストーリーから
少し書いてみようと思います。

先回、「魚が獲れない…その中にも神の御手が」という話を書きました。
ガリラヤに戻った弟子たち。漁に出るも、魚が全然取れなくて、絶望的になっている・・・でも、まさにそこに、すでに、神の手があった、という話でした。

そのあとです。
岸辺から「子どもたちよ。食べるものがありませんね。」と弟子たちに声をかける人がいる。
「子どもたちよ」という呼びかけは、先生などの目上の人が生徒や弟子などの下の人にかける呼び方だそうです。
弟子たちは、まだそれがイエス様だとは気づかず、なんか偉い人が声をかけてきたと思ったようです。
そんな気分ではないけれど、一応、敬意を持って返事をします。
「はい。ありません。」
すると、その目上の人が言います。
「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」

普通、漁は舟の左側に網を降ろすのが、常識中の常識。漁師家庭に育ち小さい頃から漁をしてきた自分たちがやっている方法だ。
どんな偉い人か知らないが、なにがわかるというのだ・・・。
と、弟子たちは思ったかもしれません。

でも、まぁ、やってみるか。

弟子たちが、網を、イレギュラーにも、右側におろすと、
なんとおびただしい魚が、網が引きあがらないほどとれた!!

そして、気づくのです・・・「主です!!」


感動的なシーンですね。大好きです。


弟子たちにとって、網を舟の右におろす、というのは考えもつかない方法でした。
自分の知識では、ありえない方法でした。うまくいくとも思えない。

けれど、神様は、そんなありえないと思える方法をすすめることがあるんじゃないか、と
このストーリーを見て思うのです。

婚活でも、いろんな方法を試して、いろんなトライをしてきて、自分の考えうるありったけの方法を試して、人が言う「これがいい」という方法、自分で「これはいけるはず」という方法を試して・・・
それでも、うまくいかない。
正しいと思えることはすべてやった。もはや、何がいけないのかも、わからない。

そんなときが、あるかと思います。

そういうとき、「網を舟の右側におろしなさい」と言われたら・・・?

そんな方法聞いたこともないし、なんかうまくいくとも思えない・・・
けれど、やってみる価値はあるかもしれません

自分では確かだと思えないことも、一旦はやってみる価値があると思うのは、
もしかしたら、それが「舟の右側」かもしれないからです。
そこに、神様の用意した道があるかもしれない。
どうせわからなくて、どうせ今までやりつくしたなら、やってみてもいいんじゃないでしょうか。

もし、そこに道があれば、必ず開かれるし、
「主だ!」と、神様がはたらかれた、という実感や確信が伴うはずです。
その実感こそが、神様の用意した道だという証拠になると思います。

行き詰まった時は、
自分の常識に固執せず、舟の右側に網をおろしてみませんか?

You can try another way...


==お知らせ==
★ご参加おまちしております!
3月20日(月祝)
◎ランチ&祈り会(12:00〜13:30)
あと10人ほど参加可能!
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◎クリスチャンお見合いパーティー(14:00〜16:00)
あと1名です!
お申し込み・詳細はこちら↓

2017年3月13日月曜日

【速報】お見合いパーティー あと1名!!

【速報】
お見合いパーティー、1名キャンセルされましたので、
あと1名エントリーできます!!

https://chubu-christian-marriage.jimdo.com/party2016-0320/

迷っていた方、定員になって諦めていた方、
あと1名!!!大丈夫です!


ランチ会のほうもまだまだ受付中です。

http://chubu-chrisitian-marriage.blogspot.jp/2017/01/blog-post_26.html

私の見てきたクリスチャン夫婦たち

私の家庭は、いわゆるクリスチャンホームで、
父も母もクリスチャン、同居していた祖父母もクリスチャン
夫の家庭も、いわゆるクリスチャンホームで、
義父も義母もクリスチャン、同居されていた義祖父母もクリスチャン
生まれた時から教会に連れて行ってもらっていたので
そこにもクリスチャンの夫婦や家族がおり、
今行っている教会にももちろんクリスチャンの夫婦がおり、
友人にもクリスチャン夫婦が何組かおり、CCMつながりでクリスチャン夫婦の誕生とそれからを見ている。

私も夫も
たくさんのクリスチャン夫婦を見て育ち、
とにかく家に帰れば2組のクリスチャン夫婦がいたわけだ。

クリスチャンであり、クリスチャンホームに育った・・・ということ以外に
ほぼ何の共通点もない私と夫が
唯一「だよね」と意見が一致していたことは


『クリスチャンの夫婦の一致ってなに?』

ということだった。

だって、見てきたもの。
父と母が、祖父と祖母が、全然ちがう人間で、ものの考え方も違えば、信仰も神様感もちがう。メッセージを聞いて響くところも違えば、趣向も違う
教会への参加の仕方も違うし、、、

はっきり言って、
いつも一緒、いつも二人が同じことをしている・・・
なんてことは、ない!!

牧師夫婦はその働き上、きっと一緒にいる率は高いけど・・・
いや、それぞれもつ賜物は違うから、やっぱり分業しているところはある。

そして、なにからなにまで一致なんかしなくても、意見が同じじゃなくても
一緒になれる、家族になれるもんだ・・・と
思ってきたのだ。

そして
意見とか思いとか信仰感(?)神感(?)が一緒なことよりも
もっと大事なことがあると思っている。

それは、
「相手の考えを認めてあげ合うこと。」

「そうなんだ、そういう感じなんだね。」と思って、
その意見や考え方をもつことを認めてあげ、受け止めあう。
そして、寄り添えるところは寄り添う。
一緒に行けるところは一緒に行く。一緒に来てもらえるところは一緒に来てもらう。

なんか、そうやって、やってるんじゃないかな・・・と
数々のクリスチャン夫婦をみてきて思うし、
結婚して5年目になるけれど、私たちもそんな感じだ。

個人的には、
夫婦の意見が一致しすぎることに、ものすごく危機感を感じる。
変な方向に行った時に、止めたり、冷静さを与えたり、警告してくれる存在がなくなってしまう。
違う考え方を持っているから、私には見えない側面が彼には見える。
こんなありがたいことってないのだ。


神さまが求めている「一致」というのは、
一つのものになる、コピーのように同じになるということではないんじゃないかと思う。
じゃなかったら、神様はこの世界を、こんなに色とりどりに造らなかったんじゃないかとさえ思う。

新約聖書のパウロの言葉には「一致」とか「一つとなる」ということがよく出てくる。

1 こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2 私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください
3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。(ピリピ2章)

ここでの「志を一つに」の「志」はギリシャ語ではフロネオー「思う」で
「思いを同じようにする」という意味。
英訳ではBeing one in love and purpose=愛と目的において一つとなれ
と訳されている。
同じ人間になれ、染まりきれ、ということではない。
手と手を合わせるように、思いを合わせる、ということなんだと思う。

ほら、手と手を合わせても手がくっついて一つの手にはならないでしょ?
手を合わせても右手は右手、左手は左手、あなたの手はあなたの手、私の手は私の手。

そして、その一致や志が一つになるために大事な鍵が3節以降
はじめっから一致する人と一緒にいるのでもないし、
意見を戦わせて一つにするのでもない。

相手の意見をいったん尊重して受け止める。
「そうか、そういう感じなんだね」から、きっと始まる。

“ 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。”

こういう向き合い方があれば、夫婦は一緒に居続けることができるんじゃないかな、と思う。


どんなに「一緒だ!同じだ!」と思えても、やっぱり人間は一人一人違う。
でも、違いに落ち込まなくたっていい。
違ったって、孤独にはならない。全部を知っていて、決して離れない神様がいる。
そして、離れない努力をし続けてくれると、神と証人の前で誓ってくれるのが
パートナーだ。
その誓いは、神様が守ろうとしてくださるし、本人たちが破らない限り壊れない。

それだけでも、充分じゃないかな、

なんて、思うのだ。


2017年3月11日土曜日

魚が獲れない…その中にも神の御手が

受難週ですね。

多くのクリスチャン、教会ではこの時期
キリストの受難を覚えて、どちらかと言えば暗い重苦しい感じになるのかもしれません。
私はどうしても、その先の復活を思い描いてしまう。
受難はイエスさまにとってはひどく苦しいものだったし、本来は私たちが受けるべき苦しみだったけど、
贖われた身としては、その受難は感謝と喜びであるはずだから
私たちが悲しみにくれることはない・・・と思ってしまうのですね。

というわけで、
今日はキリスト復活後のストーリーから、お届け。


キリストが十字架にかかり、死んで葬られ、3日後に墓からよみがえられ、
恐れて隠れていた弟子たちに現れ、感動の再会を果たし、その後
弟子たちがガリラヤ(地元)へ移動した後。

ガリラヤへ帰ったものの何をしたらいいのか・・・
あれからイエスさまにも会えてない・・・
元漁師のペテロは「私は漁に行く。」と言い、
一緒にいた他の6人の弟子たちも「私たちもいっしょに行きましょう」
と、みんなで湖へ行った。
舟を出し、網を下ろす。
“懐かしい感じだ、体が覚えているんだな、また漁師に戻るか・・・”

ところが、全然、魚が獲れない。

“これじゃ、ご飯も食べれない。なんだよ、漁師にも戻れないのか。
家族も養えない。俺たちは何者でもないのか。どう生きていけというんだ。”

おそらく、そうとうな絶望感を感じていたんじゃないでしょうか。
はっきりとした未来も見えない。仕事もうまくできない。
人としての生き方、ありかたも、わかるようなわからないような。
あの怒涛の輝かしい3年間も終わった。その意味もまだ頭の中で整理できない。
挫折感・・・喪失感・・・八方塞がり・・・
湖の真ん中で・・・もうすぐ夜が明けるというのに・・・。


でも、この後に、イエスさまは弟子たちに現れて、
溢れるほどの大漁を与え、共に食事をし、ペテロには明確な赦しと使命を告げ・・・
という、大きな恵みの展開がくるんですよね。


もし、魚が獲れてたら、本当に漁師に戻ってしまっていたかもしれない。
そこそこ、生活を取り戻し、イエスさまを懐かしみながら生きるだけの人生だったかもしれない。
でもそれでは、福音は世界に伝わらなかっただろうし、
そしたら今の私たちの信仰生活もないわけです。


魚・・・獲れないことに、意味があった。

それは、偶然獲れないところに、イエスさまが来たのではなくて、

獲れない時点で、
漁に行く時点で、
いや、きっとその前から、
主の御手が働いていて、この展開(計画)ははじまっていた!
ということだと思うのです。

(ぞくっとしますね♪)

きっと、今の私たちもそうだと思うんです。

婚活でも、収穫がない。出会いが上手くいかない。
出会ったけど上手くいかない。
いいなと思ったけど、断られちゃった。
気合い入れてパーティー行ったけどいい出会いがなかった。
上手くいかない時間はある。
でも、まさに、そのとき、その瞬間にも
神様の御手がはたらいている・・・!

神が離れているから良いことが起こらないんじゃない。
神は離れない!(決してあなたを見放さず、あなたを捨てない)

この聖書のストーリーは、そんな励ましをくれるように思います。

楽しみにしたい、これからおこる祝福を・・・!
網が破れんばかりの祝福と、主とともに食事するような平安と、
涙出るほどの赦しと、あなただけに与えられる召命とを。



==お知らせ==
★ご参加おまちしております!
3月20日(月祝)
◎ランチ&祈り会(12:00〜13:30)
あと10人ほど参加可能!
お申し込み・詳細はこちら↓
http://chubu-chrisitian-marriage.blogspot.jp/2017/01/blog-post_26.html

◎クリスチャンお見合いパーティー(14:00〜16:00)
キャンセル待ちです。
お申し込み・詳細はこちら↓
https://chubu-christian-marriage.jimdo.com/party2016-0320/

2017年3月9日木曜日

花粉症を乗り越える!

なんか、信仰とあまり関係ないかもしれないんですが

体調を整えるということも
婚活においては結構大事だと思うのです。

神様から与えられた体をちゃんと管理して
神様から与えられたチャンスをちゃんと活かす
やむを得ない持病や障害は別として
心は元気だけど体はボロボロですというのは
なんともアンバランスだと思うのです。

3月のお見合いパーティーと交わり会
今になって、
「しまった、花粉症の季節!!」
と気づきました。




花粉症の方、すいません。
全力で体調を整えてきてほしいと思います。

「弱いからこそ、強いのです」というみことばも確かにあります。

でも、それは、神様があえてとらなかったトゲをかかえていて、パウロのように主に仕えていくという働きの中において・・・という話。

「悪い木からは悪い実しかならない」というみことばがあるように
不健康な体の状態からは、健康な精神やアイディアやインスピレーション、表現は出てこないと思うのです。

だから、
もう一度言いますが、
花粉症の方も、
全力で体調を整えていきましょう。


かくいう私も慢性アレルギー性鼻炎と乾癬という皮膚の病を抱えています。
体調によってもその症状はアップダウンします。
もはや、何が原因かもわからないレベルで、一年中、何年も、解決方法を探し続けています。

とりあえず、この季節は
「花粉症」対策ですね。
花粉やほこり、季節の変わり目によるアレルギー症状をなんとか抑え防ぎたい!

<アレルゲン(花粉)の侵入を防ぐ>

体の粘膜に花粉がついちゃうと、体内に取り込まれてしまうので、
粘膜につかないようにするのが防御法です。
・マスクをする(口、鼻の侵入を防ぐ)
・花粉対策用メガネをかける。ドライアイにならないように気をつける。
・外に出かけるときは、花粉がサラっと落ちそうな素材の服を一番上に着る。
・鼻の穴にワセリンを塗る(鼻の奥への侵入を未然で防ぐらしい)
・花粉ブロックスプレーをかける。
 (イオンの働きで、見えないベールを作るのだそうです。)

<体内に入っちゃったアレルゲンを出す>

・鼻うがい(専用液、もしくは薄めの食塩水で)
 鼻、喉についた花粉を流してくれます。

<アレルギー反応が出にくくなるようにする>

どうしたってアレルギー反応が出ちゃったら、しばらく止まらないんですよね。
一回鼻むずになったらとまらない、目が痒くなったら止まらない、咳が出たら止まらない。
そう、まるで、しゃっくりのよう!

一昨年の秋から冬、私は咳が止まらなくて4件病院を回りました。レントゲン撮って、血液検査をしても、原因も病名もわからない。もらう薬はどれも効かない。
で、もう嫌になって、全部デトックスしたる!!と思って、
「にんじんリンゴジュース」と「野菜燃焼スープ」だけを摂取するという生活にかえました。そしたら、一週間くらいで症状が緩和していき、治っていったんです。

昨年末むくみがあまりにひどくて、今年に入ってから糖質を減らしてタンパク質を増やすという食事に変えています。むくみもだいぶ引き(でも我慢できず糖質をとるとまたむくむ)、今年花粉シーズン、ほとんどムズムズ、しょぼしょぼがありません!

すごくないですか?アレルギーを抑える薬が手放せなかったのに・・・。

調べていくと、どうやら「腸と糖」が関係しているみたいなのです。
糖質を摂りすぎると、腸は糖質を代謝することで疲れてしまい、タンパク質や脂質の代謝に余力がなくなっちゃうのだそうです。でも、肌を作るのはタンパク質脂質。
また、糖質をとると血糖値がグンとあがります。これを正常化させるのにコルチゾールというホルモンが役割をはたすのですが、このコルチゾールは抗アレルギー作用ももっています。でも、血糖値を抑えるのでいっぱいいっぱいになると、抗アレルギー作用が十分に働かない。
糖質を摂りすぎると、腸もホルモンも糖質処理でオーバーワークになってしまい、アレルギーを抑えたり肌を整えたり免疫を高めるものの吸収や処理が不十分になってしまうんですね。

多分今まで糖質摂り過ぎてたのだと思うんですが、
「にんじんりんごジュース」「野菜燃焼スープ」「低糖質食」で、
それがリセットされた、正常化に近づいた、ということみたいなのです。

薬も効かない!どうしよもない!という方は、
「野菜スープ生活」「パン・麺禁止、少なめ、代わりにゆで卵」を
とりあえず一週間だけやってみてはいかがでしょう?

意外と食事で変わるものです(実体験より)。


さあ、お見合いパーティーまであと二週間!

お見合いパーティーは定員になりましたので、申込みは締切りました。

ランチ会はまだ受付中です。

万全の体制で、行きましょう!

私もみなさんと、万全の体制でお会いできるように備えます♪



お見合いパーティー〆切ました!と、新情報!

3/20CCM名古屋クリスチャンお見合いパーティー
20名の定員に達しましたので、申し込みを締め切りました。

2週間弱前の段階で定員がいっぱいになってしまいました。

今回は、男女比がほぼ同じです。

CCM初期の頃も、男女比がほぼ同じ(むしろ男性が多いことも)でした。
初めて参加される方も多いです。すごく久しぶりの方もいます。
私自身、皆さんにお会いできるのが楽しみです。
さぁ、祈って備えていきましょう!!!


迷ってたんだけどなぁ〜・・・

という方に、2つお知らせがあります。

パーティーの前の、
CCMランチ&祈り会(12:00~13:30)
はまだ余裕があります。
あと10名ほど参加可能ですので、是非!
詳細・申し込みはこちら!!

そして、

3月25日に
P&A(プリスカとアキラの会)
というクリスチャンの出会いの会があります!

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

第17回P&A(プリスカとアキラの会)
P&Aでは、第17回目の集会を企画いたしました。賛美、聖書朗読、祈り、証の後
テーマトーク、1対1での自己紹介、フリートークなどを通して交流を深めます。
どうぞ奮ってご参加ください。
日時 2017/3/25(土) PM1:30~4:30
場所 愛知県愛西市 佐織公民館 2階 視聴覚室
会費 800円(場所代、茶菓子代、事務費として)

真面目に結婚をお考えのクリスチャンの方、どなたでもご参加ください。
*教派を超えた出会いの場としてお考えください
*プライバシー保護のため、電話番号やアドレス交換は、スタッフを通して行います。
*初めて参加される方は、受付手続きのために15分早めにお越しください。
*参加ご希望の方、またご質問のある方は下記スタッフまでご連絡ください。
日笠さん→メール 古橋さん→メール

☆準備の都合上、一週間前を一応の締め切りとさせていただきます。

P&A協力
名古屋福音自由教会、日本キリスト改革派津島教会
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

こうして、同じミニストリーをしている方々と情報を共有し、
皆さんにお届けできることが、携る者としてはすごく嬉しいです。

結婚を祈るクリスチャンの皆さん!
あらゆる機会を活かして、出会いのために祈り、行動してみてください!


2017年3月7日火曜日

がんばれないとき

ときどき、ふと思うのです。

みんな、よくがんばっている

結婚したいからとはいえ
自分の人生がかかってるからとはいえ

本当に心も労力もかけて、出会いの場へと生き続け
自意識やいろんなものと戦いながら
悩んだり奮い立たせたりしながら、
時間とお金をさいてチャレンジしている。

だけど、
自分の望んだことなら
なんでも頑張れるのだろうか?
好きなことなら、なにがあっても楽しめるんだろうか?

そんなことはない。
超ポジティブな気持ちではじめたって
うまくいかないことが続いたら
辛くてイヤになって当然だと思う。

頑張らなきゃ・・・と思えば思うほど
気持ちも体も重くなるのだ。

大変なことだとわかってて、でもうまくいく自信がないから、
踏み出せないのは当然だ。

それに対して
「こんな貴重な機会を逃すなんてありえない!」
「諦めるのか?そんな人生でいいのか?」
と、言われたら、
頑張ってる人、迷ってる人の心は折れてしまわないだろうか。
主催者としては、叱咤激励を言いたくなる気持ちもなくはないんだけど、
もっと違うアプローチはできないかと、
模索している。

ある人気のあるアーティストが
「僕、100歳まで生きたいんです。今35だけど、すごく楽しいんだけど、まだまだやりたいこといっぱいあるから。100歳まで生きて、やりたい!」
と言ったら
ツイッターでものすごい数の反響があって
「じゃあ、ワタシも長生きしよう!100歳までの彼の活躍みたいもん!」
と、ダーッとタイムラインが埋まるほど、すごい数の人たちがつぶやいていた。

自殺が多いと言われる世の中で
命は大切、とか、こうあるべき、とか
何度言っても全然説得力ないのに
好きな人の「長生きしたい」の一言で「長生きしよう、頑張ろう」て思えてしまう。
これって、すごいな、いいな、て思ったんです。

だから、
私も、まず自分が、結婚生活を充分楽しみ、それを伝えること
私自身が、婚活をおもいきり楽しんだという体験と思いを素直に語ること
婚活のために祈り合う中で、たくさんの奇跡やみわざがある、その感動を証しすること
「婚活も悪くないな、がんばろう」
とつい思ってもらえるような
そんな言葉や姿を提示していきたいな、と思うのです。

それが、ここでのコラムや、交わり会でのトークです。
無理したり、ハイになってやっても
例えそれで望みに近いものを得たとしても、本当の幸せはあるのかな?

弱さの中にこそ神は働かれる
重荷は、ここに降ろせと主は言われる
疲れたものには休ませてあげるとイエス様は言われる
頑張れなんて、言わないんですね。

結婚はとにかく頑張ればできるってものではないけど
頑張らなくてもできるってものでもない…
でも、とにかく、道はある。きっとある。

自分で自分を救えなくて、
そんな無力な自分を神様は救ってくださって、
ただただその愛と恵みに感謝することしかできなくて、
見上げてついていくしかできないけど
とにかくそうしようって信仰を持ったように、

自分で自分の人生うまくやれないけど
そんな無力な自分を神様は導いてくださっていて、
ただただその愛と恵みに希望を持つことしかできなくて、
見上げてついていくしかできないけど
とにかくそうしようって信じて、
いきたいですよね。

==お知らせ==
★ご参加おまちしております!
3月20日(月祝)
◎ランチ&祈り会(12:00〜13:30)
お申し込み・詳細はこちら↓

◎クリスチャンお見合いパーティー(14:00〜16:00)
あと2名!
お申し込み・詳細はこちら↓


関東版CCMが始まりました!
結婚を祈るクリスチャンオフ会<埼玉・東京and more>





2017年3月5日日曜日

扉が開くときがある

こんにちは
お見合いパーティー、あと4名で締め切りです。

さて、
CCMを本格的に初めて今年で3年。
「若きクリスチャンの集い」と言って名古屋でみんなでランチとかやってからは、4年。

そして、去年、急に関東へ移動が決まり、関東生活がはじまりました。

「CCMみたいなの関東でもやらないの?」という声は、
移動が決まるころからあったんですが

でも、全く先も見えないし、コネクションもないし、
クリスチャン人口も多いから出会いの機会はすでにいっぱいあるだろうし、
私がやることや、神様の計画はあるのかなぁ、と思っていました。

「もし、そこに用いられる機会があるなら、神様どうぞ導いてください。」
とは祈っていたけれど、
やっぱりCCMのことがずっと気にかかっていました。


しかし、
扉は突然に開く。

「関東には、出会いの機会はあるけれど、婚活で心が疲弊しても元気を得る場所がない。
CCMみたいに、楽しそうで、交わりがあって、また頑張ろうって思える場所は、
本当に必要なんです!」

という、婚活中の友人の声をダイレクトに聞いて、

「あぁ、そうか、そうなんだ・・・。」と気づかされました。

「交わり会でいいんです!ランチみたいなのでいいんです!戦いの場はあるから。
そこで頑張るために励ましを得たいんです!」

そこから、フワーーーっとイメージが広がっていったんです。

こんな会がいいね、このくらいの規模で、こんな感じで、
告知もこうしていけばいいし、始めは二人からでもいいじゃない。
まって、あの子もあの人も関東にいるじゃん、そういえば彼も彼女も!!
急に目の前が開けて、見えてなかったものが見えてきて、
隠れてしまっていたひとりひとりを思い出して、

もうやるしかない、やらない理由がない!

となってしまいました。

というわけで、

関東版CCMが始まりました!
結婚を祈るクリスチャンオフ会<埼玉・東京and more
http://blog.livedoor.jp/believers_kekkon/



交わり会の開催や、CCMで綴ってきたコラムをリライトして
こちらでもコラムを書いていく予定です。


立ち上げて、気づいたのは、

あれ?交わりの場が、増えた。
中部と関東のつながりもこれからできちゃうかも。
中部の人が関東に交わりにいくこともできる、出会いにもいける!
関東の人が中部に交わりに行ったり出会いに行ったりもできる!

扉は、急に開くんですね。
心の向きも、神様にキュッと変えられてしまった。
何も無理していないし、とてもワクワクしています。

でも、

これまでやってきたことと、
出会ってきた人のつながりと、
迷いながらでも「祈り」が
土台となって、布石となって、
この扉は開いたような気がします。

中部の皆さん!なんか・・・広がったよ!!(笑)

だから、また、これからも
交わり会やパーティーに是非きてくださいね!

祈っていきましょうね!


==お知らせ==
★ご参加おまちしております!
3月20日(月祝)
◎ランチ&祈り会(12:00〜13:30)
お申し込み・詳細はこちら↓

◎クリスチャンお見合いパーティー(14:00〜16:00)
あと4名!
お申し込み・詳細はこちら↓






2017年3月2日木曜日

チャンスはどこに、どうしたら?

「太陽の下、再びわたしは見た。
足の速い者が競争に、強い者が戦いに
必ずしも勝つとは言えない。
知恵があるといってパンにありつくのでも
聡明だからといって富を得るのでも
知識があるといって好意をもたれるのでもない。
時と機会はだれにも臨むが人間がその時を知らないだけだ。」
(コレヘトの言葉:伝道者の書9:11-12)

栄華を極め、神様から知恵の賜物を授かったソロモン(コレヘト)さん・・・
あなたがこれを言いますか!

強ければ、賢ければ、要領がよければ、うまくいくってわけじゃない。

世の中の常識と全然違うじゃないですか。

ノウハウとか必勝法とか、どうなっちゃうんですか。

その「時と機会」はどうしたらわかるんですか!?

と、叫びたくなりますね。


でも、この聖句は実は、文脈上「チャンスをつかむ」という話ではありません。
すぐ後に、
「魚が運悪く網にかかったり、鳥が罠にかかったりするように、人間も突然不運に見舞われ、罠にかかる。」とあります。

「時と機会」の部分は、口語訳では「時と災難」と訳されています。

つまり、
いつ神の裁きの日が来るかわからない、
その日は、本当に突然来る。
けど、救いは、
この世の勝利とか頭の良さとか要領の良さとかに関わらず
信仰により恵みによる、
世の勝利者が、必ず救われるわけでもなく
世の優劣で、救いが決まっているわけでもないよ、
だから、そういうことに関わらず、
しっかり信仰を持ちつづけることを、
求めていこうね!

というのが、本来の意味のようです。


神様の「時」に対する姿勢は
チャンスについても同じことが言えるのかな、と思います。

どんな「時」がくるにしても、(良い時でも、悪い時でも)
一貫した態度でいることができれば、
あたふたしなくていいですよね。

まさしく・・・
「時がよくても悪くてもしっかりやりなさい」

突然の「時」が訪れる・・・といえば、
「ルツ」「マリアとヨセフ」「ザカリヤとエリザベツ」を思い出します。

ルツは、波乱万丈な人生です。
外国人と結婚したし、その旦那は亡くなるし、義母と一緒に外国に住むことになるし、落ち穂を拾わなければならないほど経済力はない状態だし・・・
でも、ルツはナオミの信じる神を自分の神として信じ、謙遜と忠実をもって歩んでいた。
そして、はからずもボアズと出会った。

ザカリヤとエリザベツは、不妊の夫婦だったけど
司祭一家として信仰をちゃんと守り「ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた。」と聖書に記されるような歩みをしていた。

マリアとヨセフは、共にダビデの子孫。そして、ダビデの子孫として系図が書かれているということは、ただ血縁を継いでいるというだけでなく、ちゃんと信仰も継承していたという証。

ルツも、ザカリヤとエリザベツも、マリアとヨセフも、
突然の「時」が訪れた時に、驚きつつもちゃんとそれを受け止めることができた。
そして、その「時」を受け入れた時、神様を賛美している。

「時」チャンスを受け入れ、つかむことができたのは、
ちゃんとした信仰生活があり、いつも神様に目を向け、
祝福を受ける準備ができていた
からじゃないか、と思うのです。

(祝福を受ける準備ができていた、というのは、受けた時に神様に賛美していたから。
それが神様からの祝福だと理解できたから、神様を賛美した…ということ。)

チャンスはどこにあるのか、いつくるのかわからない。
チャンスを自分の力でつかむ方法もないのかもしれない。
でも、与えられたチャンスを見極め、受け取る方法はあるのかもしれない。

婚活でも、生活でも、忙しさや大変さにおわれ
いろいろ考えてしまうと
どんどん視点は自分に向かって、どんどん下をむいてしまう

けれど、
どんなときも、どんな状況でも
クリスチャンであることは変わらないはず。

“だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけで十分である。”(マタイ6:25-34)

「何よりもまず、神様に心を向けて歩む」

そのコツコツとした信仰の積み重ねの先に、
チャンスを見極め、祝福を受け取ることができるように
育てられていくのかもしれない。



結局そういうことか〜
という声も聞こえてきそうですが、
表面的な良いクリスチャンでいるということではなく、
本当に心の底から他の誰でも何でもなく神様を求める
ということなのかな・・・
と思います。それって、意外と難しいです。
私も胸に手を当てて考えてみると、やはり、うなだれてしまうなぁ。



==お知らせ==
★ご参加おまちしております!
3月20日(月祝)
◎ランチ&祈り会(12:00〜13:30)
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◎クリスチャンお見合いパーティー(14:00〜16:00)
あと9名!
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2017年2月28日火曜日

そばに居てみる

実は、今、ある教会の聖書研究祈祷会に参加させてもらっています。
聖書研究(講解メッセージ)があり、祈祷課題と祈る時間があり、その後皆でランチを食べる、というひとときです。

いまだ、母教会に席はあるし、今後転会するかどうかもわからないけれど、
一つは住む地域にコネクションが欲しかったこと
何かあった時に助けて!っていえる教会との繋がりが欲しかったこと
が理由です。

しかし、平日の午前中に開かれるこの会、
参加者は見事に・・・人生の先輩方ばかり・・・
とくに高齢者の割合の多い教会なので
自分の親よりも上のお姉さま、お兄さまばかりなのです。

でも、とてもみなさんやさしい。

けど、ぐんぐん踏み込んでくることもない。

私も、ぐいぐいとは踏み込んでいかない。

あまりのジェネレーションギャップなので
会話も同じ目線で返すことは到底できず、
「へえ〜」「なるほど」「(笑)」を繰り返す感じです。

一見、なんだこれ、と思います?
それ、行って意味あるの?て思います?

けれど、この不思議な状況に、あえて
寄り添ってみよう、と思ったのです。

わからないけど、そこに居てみて
この状況をあえて、楽しんでみようと思ったのです。

そばに居てみることで、自然になにかを発見できたり
自然な形でゆるやかに人との関係ができるんじゃないか
やわらかい感じでお互いを知っていき、交わりができるんじゃないか
と思ったのです。

これは、私にとっては、新しい試みです。

ずっと慣れ親しんだ教会にいたし、
相手がぐいぐい系でそれに乗っかって関係を築いたことはあったけど、
それは自分も無理したし、意外と簡単に関係は崩れるし、
なんとか自分を相手に合わせるとか、なんとか自分をアピールするとか
無理やり共感してみるとか、無理やり一つになろうとするとか
エネルギーを使って、自分の力で関係を作るのは結構大変で・・・

ばらばらだけど、違いはあるけれど、

ただ、そばに居てみる

そこから始まる、まじわりとか
そこから始まる、相互理解とか
そこから始まる、つながりとか

あるんじゃないかな、と思うのです。

ゆるやかに、やさしく、やわらかく・・・


なんとなく、今、「エマオの途上」や「アブラハムの元に来た3人の旅人」や
「取税人とともに食事をするイエス様たち」を
思い出しています。



もし、このチャレンジに、もう少し何かが見えて来たら
婚活でも、よく言われる
「とりあえず、一人の人と2、3回はあってみるといい」に
なにかしら裏付けみたいなものが、みえるような気もしています。

何か見えたら、またここに書きますね♪

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