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2017年1月30日月曜日

なぜクリスチャンとしての結婚なのか?

CCMでは、基本的にクリスチャン男性とクリスチャン女性の出会いの場となるように、
いろいろ機会を設けています。

集う人も、クリスチャンの人と結婚したい、と思っている人がほとんどです。

私も、クリスチャンの人と結婚したいと思って、クリスチャンの男性と出会いたいと思って婚活しました。

それは何より、自分が「クリスチャンとして生きていきたい」と強く思ったからです。
そして、自分の根幹、生き方をちゃんと理解してくれる人とじゃないと、きっと40年50年生活したり子育てしたりするのは難しいだろうな、と思ったからです。
あの当時、物理的なことより精神的なことをすごく優先したい気持ちが強かった。
結論から言えば、同じクリスチャンだって信仰のスタイルや価値基準はいろいろで、完全に一致して理解してもらうことはできないってことが、結婚してからわかったのだけど。


「自分がクリスチャンとしていきていきたいから」
「教会で一緒に礼拝したり、一緒に祈ったり、聖書の話を心置きなくしたいから」


それ以上の意味って、「クリスチャンの結婚」にはないのかなぁ
と、最近おもったわけです。

自分に理由があるだけでは、なんとなく説得力がない、というのが私の思考パターン。
もし、聖書に由来する理由が説明できたら、、、
「ノンクリスチャンの人と結婚して伝道すればいいじゃない」とか言ってくる
親切な方々にも、ちょっと説明ができるかもしれない。

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ここで、一つ前置きしておきますが、
私自身は、クリスチャンとノンクリスチャンで結婚することは悪いこととは思っていません。神様がそう導いたから結婚に至ったのだと信じています。そして、短いあるいは長い年月をかけてパートナーや家族が信仰を持つこともある。だから、クリスチャンとノンクリスチャンの結婚は、また別の神様からの道、チャレンジ、課題が与えられているのだと思うし、だからこそ応援して祈りたいと思っています。

今回は、どちらかといえば、
「クリスチャンと結婚したい人を励ます聖書的裏付けはあるか」への試みとして書きます。
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ある日の聖書研究祈祷会で出会ったんです。
場面は出エジプトのシーン。モーセがファラオに向かって11個目の災いについて語っているところ。
「(11個目の災い:エジプトの初子は全部死ぬが、イスラエル人に対してはなにもおこらない)これは、主がエジプト人とイスラエル人を区別されるのを、あなた方が知るためです。

『区別』
「区別」することで、他の人が神について知るってこと?

※差別ではなく、区別です。
優劣はつけず、ただより分けるということです。

モーセの律法を通して、神様はイスラエルの人たちを「聖別」しようとします。
「聖別、聖い」という言葉が何度も出てきます。
この「聖」を表わすヘブライ語のカドシュは、本来、切り離し、区別され、取り分けておくという意味なんです。
実は日本語辞典には「聖い」という言葉はありません。キーボードで打っていても変換候補に出てきません。音が一緒なので間違ってしまうけれど「聖い」は「清い」とはちょっと意味が違うんですね。

つまり、モーセの律法があったのも、イスラエルの民と他の民を区別するため
神を信じる人と、神を信じない人を区別するため、という意義がある。

なぜ区別するかと言えば、
神を信じる人の信仰を守るため、
そして、他の人が本当の神を知り、信じるため(つまり、証となるため)。

モーセの律法の意義はもう一つあって、
それはイスラエルの人が律法を守れず、自分の罪を自覚し(ガラテヤ3:19)、
罪を贖ってくれる救い主を求めるようになるため(申命記18:15、使徒3章)でした。
信仰にとどまり神様の求める生き方をしようとすればするほど、
自力の限界、罪のあることを思い知らされる。けど、だからこそ、救い主を仰ぎ求める。

これは、きっと私たちも同じ。
クリスチャンとして生きていくということはそういうことで、
でも、それも、神様が、私たちが神様を仰ぐためになさっていることでもあるのかもしれない。


他と一緒であることに安心するという日本的な考え方・・・
いろんな考えがあってもいいじゃない、という現代的な考え方・・・

聖書の示すものはそうじゃないんですよね。
きちんと「区別」する。何をよしとし、よしとしないか、はっきりしている。

日本において超少数民族とも思えるクリスチャンという人を
わざわざ選んで、結婚しようとするのは、まさに茨の道。
でも、それは、クリスチャンの結婚生活とそうでない結婚生活を「区別」していて
その「区別」には聖書を背景にした結構な意味がありそうだ
と私は思うんです。

いかがでしょう?

ちょっと難しい話でした。

でももし「クリスチャンとしての結婚生活を求めるのは、高望みなのかな」
と落ち込んできたら、そんなことないよ!高望みとかそういうことではないよ!
と、言ってあげたいと思います。



ただし、クリスチャン同士で結婚したからって、結婚生活が平和とか安泰とは限りません。それにはそれの試練と恵みがそれぞれあります。

たぶん、クリスチャン同士の結婚とそうじゃない結婚っていうのは、
そもそも人が秤にかけるものではないのでしょうね。
命のこと、霊のことは、神の御手の中にあることだから・・・。




==お知らせ==
3月20日(月祝)
ランチ&祈り会(12:00〜13:30)
クリスチャンお見合いパーティー(14:00〜16:00)

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