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2017年2月28日火曜日

そばに居てみる

実は、今、ある教会の聖書研究祈祷会に参加させてもらっています。
聖書研究(講解メッセージ)があり、祈祷課題と祈る時間があり、その後皆でランチを食べる、というひとときです。

いまだ、母教会に席はあるし、今後転会するかどうかもわからないけれど、
一つは住む地域にコネクションが欲しかったこと
何かあった時に助けて!っていえる教会との繋がりが欲しかったこと
が理由です。

しかし、平日の午前中に開かれるこの会、
参加者は見事に・・・人生の先輩方ばかり・・・
とくに高齢者の割合の多い教会なので
自分の親よりも上のお姉さま、お兄さまばかりなのです。

でも、とてもみなさんやさしい。

けど、ぐんぐん踏み込んでくることもない。

私も、ぐいぐいとは踏み込んでいかない。

あまりのジェネレーションギャップなので
会話も同じ目線で返すことは到底できず、
「へえ〜」「なるほど」「(笑)」を繰り返す感じです。

一見、なんだこれ、と思います?
それ、行って意味あるの?て思います?

けれど、この不思議な状況に、あえて
寄り添ってみよう、と思ったのです。

わからないけど、そこに居てみて
この状況をあえて、楽しんでみようと思ったのです。

そばに居てみることで、自然になにかを発見できたり
自然な形でゆるやかに人との関係ができるんじゃないか
やわらかい感じでお互いを知っていき、交わりができるんじゃないか
と思ったのです。

これは、私にとっては、新しい試みです。

ずっと慣れ親しんだ教会にいたし、
相手がぐいぐい系でそれに乗っかって関係を築いたことはあったけど、
それは自分も無理したし、意外と簡単に関係は崩れるし、
なんとか自分を相手に合わせるとか、なんとか自分をアピールするとか
無理やり共感してみるとか、無理やり一つになろうとするとか
エネルギーを使って、自分の力で関係を作るのは結構大変で・・・

ばらばらだけど、違いはあるけれど、

ただ、そばに居てみる

そこから始まる、まじわりとか
そこから始まる、相互理解とか
そこから始まる、つながりとか

あるんじゃないかな、と思うのです。

ゆるやかに、やさしく、やわらかく・・・


なんとなく、今、「エマオの途上」や「アブラハムの元に来た3人の旅人」や
「取税人とともに食事をするイエス様たち」を
思い出しています。



もし、このチャレンジに、もう少し何かが見えて来たら
婚活でも、よく言われる
「とりあえず、一人の人と2、3回はあってみるといい」に
なにかしら裏付けみたいなものが、みえるような気もしています。

何か見えたら、またここに書きますね♪

==お知らせ==
★ご参加おまちしております!
3月20日(月祝)
◎ランチ&祈り会(12:00〜13:30)
お申し込み・詳細はこちら↓
http://chubu-chrisitian-marriage.blogspot.jp/2017/01/blog-post_26.html

◎クリスチャンお見合いパーティー(14:00〜16:00)
あと5名!!
お申し込み・詳細はこちら↓
https://chubu-christian-marriage.jimdo.com/party2016-0320/



2017年2月26日日曜日

速報:お見合いパーティーあと6名です。

3/20の名古屋お見合いパーティー
現在、14名のエントリーを頂いています。
あと6名です。

どんどん申し込みが来ていますので、この数字も
あっという間に変わると思います。

また、随時、状況をおしらせしますね。

20名に達した時点で、申し込み受付は締め切ります。
突然、締め切りになる可能性もあるので、ご了承ください。

会場のキャパの関係で、どうしても20名が限界です。
なので、参加者増員ということはありません。

あと6名です。


ランチ会はまだ大丈夫です!
こちらも、是非♪
一緒にご飯を食べ、交わりをし、祈り合い、パーティーに備えましょう!


==お知らせ==
★ご参加おまちしております!
3月20日(月祝)
◎ランチ&祈り会(12:00〜13:30)
お申し込み・詳細はこちら↓
http://chubu-chrisitian-marriage.blogspot.jp/2017/01/blog-post_26.html
◎クリスチャンお見合いパーティー(14:00〜16:00)
お申し込み・詳細はこちら↓
https://chubu-christian-marriage.jimdo.com/party2016-0320/

パーティーあと8名!!

3/20名古屋お見合いパーティーまで
一ヶ月を切りました。

今回ホント出足が早くて、すでに定員の半分以上がうまりました。
CCMのパーティー初参加の方も多いです(特に男性)。

主催者としては
中部を離れてはじめての大きな会で、正直かなり迷いも不安もありました。
中部にいるから、中部を拠点にしたミニストリーをはじめたのに、
中部を離れて中部のミニストリーをやる…それは本当にいいのか、と
そこに神様の御意はあるのか、と

さらに、今までCCMのイベントに来ていた婚活クリスチャンの方々が、去年今年と次々とお付き合いや結婚が決まりました。
このタイミングでお見合いパーティーをやって、果たして新しい人は来るだろうか……

様々な不安と心配がありつつも、
「動いてみなければ、神の御心はわからない!
成立しなかったら、それはそれでよしとしよう」
と、大損覚悟で企画しました。

主催側も信仰の戦いですね(笑)
でも、そうして、神様との対話ができ、また最前列で神様の御業を見られるのは、何よりの恵みなのです。

お見合いパーティーは
あと8人で定員締め切ります。
迷っている方は是非エントリーを!

そして、プレ企画
ランチ交わり&祈り会はまだまだ参加可能!
お待ちしております♪

==お知らせ==
★ご参加おまちしております!
3月20日(月祝)

◎ランチ&祈り会(12:00〜13:30)
お申し込み・詳細はこちら↓

◎クリスチャンお見合いパーティー(14:00〜16:00)
お申し込み・詳細はこちら↓

2017年2月24日金曜日

心と頭で理想が違う

わたくしごとですが、
頭で考えていることと、心で求めていることが随分違って
とても苦しんだ時期があります。

「私が本当に求めているものはなんなんだ」
という言葉が、脳内リフレインしていました。

自立した人間になりたい、と頭で思いながら
だれかに甘えたい、という心の衝動を抱える。

全然平気だし!って言いながら、
寂しくて寂しくて、気がついたら怒涛のかまってメールを送ってしまう。

自分の中に渦巻く矛盾に、自分で嫌気がさしました。

やがて、もう、考えるのが嫌になって、
心の赴くままに行けばいい!と走り出し、
おかしな恋愛を繰り返しました。
心の赴くまま、欲の赴くままに・・・。
結局、随分傷ついてしまったな・・・。そして、人も傷つけた・・・。

ちょっと話が逸れましたが、

婚活の時も、
頭で考えて求めるお相手の条件とか、結婚のヴィジョンがありながら、
心で求めているのはちょっと違う方向性だったりとか、しませんか?

お相手の条件が、すごく理想を満たしているのに、
なんか心がついていかない・・・。
あれ、こういう人を求めていたはずなのに・・・。

生活のこと、家族のこと、仕事のこと、いろいろ考慮した条件やヴィジョンが
間違っている、というわけではないと思うのです。
ただ、人間の心は、もうちょっと複雑で奥深いのかもしれない。

自分が心の奥底から平安とか幸せを感じるポイントを探そう!
っていう、授業が義務教育であったらいいのに・・・て思うくらい
私たちはそういう機会がなかなかないから、
一度考えてみるのもいいかもしれません。

特に、「愛」について。

『愛を伝える5つの方法』という本があります。



自分が、どんな関係性に愛を感じるのか、安心するのか、ということを
知るヒントになる本だと思います。
本の中では「愛のタンクが満たされる」という表現だったかと思います。

この、愛のタンクが満たされて、安心感や信頼感を持てるというポイントは
時に、頭で考えた条件やヴィジョンを超えることもあります。

本当に御心の人と出会えた時、条件やヴィジョンが全部叶っていなくても
そんなこと全然いいや、って思えた・・・という話もよくあります。

私たちは、「心」をもつ生命体です。
それは、人間特有の個性です。
この「心」と「愛」は繋がっている・・・と思うのです。
だから、大切にして損はない。

ちなみに、「忙しい」は心を亡くすと書きますよね。
どうか、忙しさや焦りで、心が死んでしまいませんように・・・。
心が亡くなるくらいなら、忙しさを手放してしまった方がいい。
疲れたら、休めばいい。
自分が自分として健やかに生きることの方が、
結婚するしないよりずっと大事です。




==お知らせ==
★ご参加おまちしております!
3月20日(月祝)
◎ランチ&祈り会(12:00〜13:30)
お申し込み・詳細はこちら↓
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◎クリスチャンお見合いパーティー(14:00〜16:00)
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2017年2月22日水曜日

お見合いを楽しむ方法

どうしたら「お見合い」を楽しめるだろう・・・

そんな無理難題を、ふと考えてみる。

ただでも、緊張する。
ただでも、初対面。
ただでも、何話していいかわからない。
ただでも、面倒臭い。
ただでも、ストレス感じる。
ただでも、息がつまる。
ただでも、そうなのに、ましてやお金がかかったら
なおさら 
それに対する価値を見出したい、メリットを感じたい
と、なる

でも、お金をかけているからこそ
そこに本気度が加わる。
本当に結婚を意識した前向きな人と出会える。

結婚に本気で、前のめりな人と出会うのだけど
向き合う時は、その「ガッつき」みたいのを感じたくない
カジュアルにライトにお話ししたい・・・

これって、結構難しくないですか?
もし自分に求められたら、できるだろうか・・・と考えたら、胃がキュッとなりました。
こんなハイレベルな要求ってないんじゃないかな、と思うのです。

でも、求めてしまう気持ちの流れはなんとなくわかるのです。
だって、婚活は、労力かかるし、精神力もかかる。

話は変わりますが、聖書を読んでいると
神様はなんでこんなまわりくどいことするの?と思うこと、ありませんか?
そもそもノアの洪水以降、結局世界にはまた罪がはびこったんだから、もう一度別の形でスパーンと世界を清くリセットしてもよいんじゃないか?
悪が満ちる前に、すぐにキリストが来臨して罪を贖ってもよかったんじゃないか、イスラエルの民も400年エジプトにいたり、40年荒野をさまよったり…
神様は全能のお方なのに、どうしてすぐに解決しないのか…。
それを考えたとき、
「神様はプロセスを大切にされるのかもしれない」
と思ったんです。
そのプロセスを通すことで、神の栄光はより豊かにあらわれるから…なんじゃないかと。

私が大好きな詩篇139篇をふと思い出しました。
「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。 
あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、
私の思いを遠くから読み取られま す。
あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。」

神様は、私たちが福音を信じるかどうかの結果を見るのではなく
結果が出たらはい終わり、でもなく、
私たちが座ったり、立ったり、歩いたり、思ったりするその様子、プロセスを見ていて
私たちの生まれてから死ぬまでのプロセスも見守るように見て知っていてくださる

神様ご自身が、結果ではなくプロセスを大事にして、ご計画されている…
ということを、感じます。

あぁ、もしかして、婚活もそうかもしれない…とふと思ったのです。
私たちが、結婚に至る至らないという結果じゃなくて、
どんな人に出会い、どう交流し、関係を築いたり(築けなかったり)、またそれを通して成長したり…という「プロセス」
神様は大事にして見ているかもしれない。

だったら、私たちも、そのプロセスを楽しまなきゃもったいない。
神様からのギフトとして・・・。

緊張するお見合いのときに、楽しむってなかなかできないかもしれないけれど
「大事なのは結果よりプロセス」
ということを、心にとめながら
目の前のお相手と交流の時間をもってみたら、
少し何かが変わるかもしれない・・・なんて思うのです。

婚活していた時、お見合いパーティー・・・私は楽しかったです。
いろんな方とお話ができて、その人がどんな生活をしてるのか、何にどんなことを感じるのか少しずつ聞いたり感じ取れるのが、なんだか嬉しかったです。

今は、CCMを通していろんな方とお交わりでき、いろんな話を聞けるので
とても感謝です。

==お知らせ==
★ご参加おまちしております!
3月20日(月祝)
◎ランチ&祈り会(12:00〜13:30)
お申し込み・詳細はこちら↓
http://chubu-chrisitian-marriage.blogspot.jp/2017/01/blog-post_26.html

◎クリスチャンお見合いパーティー(14:00〜16:00)
※あと10名!
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2017年2月20日月曜日

未来を知ることができたら・・・?

もし、未来を知ることができたら、
もし、明確に予言が与えられていたら

もし、どんな人と結婚するとか
もし、いつその人と出会えるとか

わかっていたら

安心できるのだろうか?
その未来を信じて、誠実に、忠実に生きられるだろうか?

聖書を読んでいると、
うらやましいくらいに
神様からの直接の語りかけがある。
旧約聖書の時代はとくに人と神とが直接言葉を交わすことも多くて

アダムは、エデンの園のどの実を食べてもいいけど、善悪を知る知識の実はダメ、それを食べたら死ぬと、直接言われて

ノアは、これから洪水で全世界を水に沈めることを言われて

アブラハムは、約束の地に導く、子どもを与える、など言われて

モーセは、エジプトから導き出すと言われ、イスラエル人にも、守る、与える、助け出すとモーセを通して言われて

みんな、これから何が起こるか、神様がどうするか、彼らはどうなるか
神様の御心を予告された上で導かれ、彼らはその予告を信じて歩めばよかった。

今、わたしたちは、神の御心を知るには、歩んできた軌跡をふりかえって、
こういうことだったのかな、と思うしかない。

それに比べたら、いいなぁ、旧約の時代は。
今も、神様が事前に御心を言ってくれたらいいのに・・・と、つい思う。

だけど

旧約の時代の人たちが、どう歩んだかといえば
予告されたにも関わらず、信じない。

蛇の言葉の方を信じて、食べてはいけない実をたべたアダム

約束の地が与えられてるにも関わらず、飢饉があるとエジプトに逃げるアブラハム

子どもを1年後に与えると明言されたにも関わらず、鼻で笑ったサラ

目の前の不幸や逆境にうろたえて、文句を言いまくる出エジプトのイスラエル人たち。

救い主を待ち望んでいたのに、目の前に現れたら信じなかったイスラエルの祭司たち

あんなに、明確に語られたのに
人間って、信じない。自分に不利だと思ったり、恐怖になったら信じない。
調子のいい言葉に誘惑の言葉にあっという間に揺らいでしまう。
あぁ、これが人間なのか・・・と、思い知らされる。
(神様の忍耐深さが身にしみる・・・)

たしかに、
もし、
未来について明確に語られて、
それが受け入れ難いものだったら
信じられるだろうか? 簡単に受け入れられるだろうか?

たとえば
「あなたは今から15年ののち結婚する」
と、神様から予言されたら、喜んで信じられるだろうか。

「え〜〜〜〜15年!?それって50代!?こどもは?!むしろ、結婚していきなり介護なんじゃ?!思ってたのと全然違う〜〜〜!いや〜〜〜〜!そんなのいや〜〜〜!!」
と、私だったら、まず、嘆く・・・(- -;)そして、15年何していいかわからず途方にくれる。

(未来がわかっても、ろくなことないな・・・)


だから、未来がわかるっていうことは、大して保証にはならないんだと思う
自分の知識、自分が知覚できるものほど、実はあてにならないものはない。
そういうものは、自分の確信を強めるものにも、勇気にも励ましにも、ならないんだと思う。

じゃあ
本当に確信を与えるのは、何かと言えば

信仰なんだと思う。

信じることが、確信を与えるのだ、と思う。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(ヘブル11章)」

聖書も、明言している。

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。
――主の御告げ――
それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、
あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(エレミヤ29:11)」


具体的な未来はわからない。
わかったって、信じられないかもしれない。

でも、私たちに、未来はある。確実にある。
それは、きっと素晴らしいもので、希望のあるものだ。

漠然としているけど、
それを単純に信じればいいんじゃないだろうか。

なにもないけど、信じる。信じることから、勇気がはじまるかもしれない。
信じることで、本当の平安がうまれるかもしれない。


私は、いつも信じている。
CCMに関わる全ての結婚を祈るクリスチャンの一人一人が
すばらしい未来を受け取る瞬間がくると。
「信じてますからね、神様!」と祈っている。

だから、お付き合いや婚約、結婚報告が来た時、本当に本当に嬉しいのだ。
ほらね、やっぱり信じた通り、神様はやってくれたよ!
さすがだね、神様!私の神様は、やってくれるお方だよ!・・・ってね。
そして、また、より確信が与えられる。感謝のサイクル。


未来は、わかんないけど
よかったら、一緒に信じてみませんか?


お見合いパーティー、交わり会、お待ちしています。


==お知らせ==
★ご参加おまちしております!
3月20日(月祝)
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2017年2月18日土曜日

思い出の曲

私たち夫婦には思い出の曲があります。

最初に夫が好きで、のちに私も好きになり、
結婚披露宴でサプライズに歌いました。

それが、小田和正さんの「たしかなこと」

夫は、結婚前、プロポーズ前、まだ単純にお付き合いしている時
出張の運転中にラジオから流れるこの曲を聞いて涙が流れてしまったそうです。

「時を越えて君を愛せるか

ほんとうに君を守れるか

空を見て考えてた

君のために 今何ができるか

忘れないで どんな時も

きっとそばにいるから

そのために僕らは この場所で

同じ風に吹かれて 同じ時を生きてるんだ」

実は、お見合いで出会った私たち。
出会ってからプロポーズまでは2ヶ月でした。
そんな短い期間でも
「愛」らしきものは育つのかもしれない

わたしが好きなのは、2番。

「自分のこと大切にして

誰れかのこと そっと想うみたいに

切ないとき ひとりでいないで

遠く 遠く離れていかないで

疑うより信じていたい

たとえ心の傷は消えなくても

なくしたもの探しにいこう

いつか いつの日か見つかるはず」

私を超える尽くすタイプで、
私よりも婚活期間が長く、たくさんの残念な思いをした
彼の口癖は「どうせ俺は」だった。
誰とも一緒にはなれないかもしれない
こんな自分を受け入れてなんてもらえない

なんとなくそんな空気が伝わった気がしたし

それは、わたしも同じで
愛にやぶれたり、人に裏切られたり、嫌われたりしてついた傷が
うずくときもあるけれど

もう一度、信じてみたい。もう一度、誰かを愛してみたい。
とおもって、婚活を始めたことを
この歌詞は思い出させてくれる。




     いちばん大切なことは

     特別なことではなく

     ありふれた日々の中で 君を

     今の気持ちのまゝで

     見つめていること


     君は空を見てるか

     風の音を聞いてるか

     もう二度とこゝへは戻れない

     でもそれを哀しいと

     決して思わないで


     忘れないで どんな時も

     きっとそばにいるから

     そのために僕らは この場所で

     同じ風に吹かれて

     同じ時を生きてるんだ

     

     どんな時も

     きっとそばにいるから



名曲・・・。

こんな素朴な結婚を、たんたんと続けていけたら
それで幸せだと思う。



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3月20日(月祝)
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2017年2月16日木曜日

盲目の恋と、そうでない恋

恋は盲目・・・盲目なほど熱い恋の果てに二人は結ばれ結婚する・・・

というイメージが、少なくとも20代の私にはあった。
恋愛体質だったのでそんな恋愛にも憧れがあったし、
同時に結婚願望があったので、こんなイメージになったんだと思う。

実際には、盲目な恋と結婚は両立しなかった。
20代、結婚適齢期と言われる年齢で、
盲目にして絶対結婚につながらないような恋ばかりをして
挙げ句の果てに、傷つきすぎて恋愛恐怖症になり、
気づけば30代になっていた。

人を好きになるのは、素敵なことだ。
「人を好きにならないようにしよう」これほど悲しく寂しい気持ちはないと思う。

神は人を愛するし、私たちはその本質において神に似せて造られているのだから
好きになる、愛するというのは、極めて自然なことだと思う。

結婚につながる恋と、つながらない恋はどう違うのか。
盲目の恋は、どうして幸せな結婚にならないのか・・・


聖書の中に、
盲目の恋と、そうでない恋のストーリーがそれぞれある。

盲目の恋は、ダビデとウリヤの妻バテシェバのストーリー
Ⅱサムエル記11章にある。
ダビデが、ある夕暮れ時、昼寝から目を覚まして、王宮の屋上を歩いていると、下の方のある家で女の人が体を洗っているのを見かける。そして、その女性は非常に美しかった。それが、バテシェバという女性で、自分の部下ウリヤの妻とわかるのだが、わかっていながら召し上げて、寝てしまう。そして、子供ができてしまう。ダビデは、夫であるウリヤを激戦の真正面に出し、意図的に戦士させてしまう。
あぁ、盲目の恋の恐ろしさ・・・人間の欲求の強さと、その狂気を感じる。

結局、ダビデはバテシェバを正式に妻として迎え入れたし、バテシェバはソロモンの母となるし、その系図の末にイエスキリストが誕生する。

でも、11章の最後にはっきりと書いてある。
「しかし、ダビデの行ったことは主のみこころを損なった」
そして、預言者ナタンを通じて神はダビデにこの罪についてはっきりと追及したし、この不倫の時の子どもは死んで、ダビデとバテシェバは絶望的な悲しみを味わうのだ。

盲目の恋は、盲目のゆえに道を踏み外す。
神様はその罪はゆるさない、はっきりと裁く、ということがわかる。

こわ・・・(- -;)



気を取り直して、

そうでない恋のストーリーは、雅歌のソロモンとシュラムの女の恋だ。
雅歌は本当に熱烈な二人の恋のやりとりが描かれている。表現も大胆で、現代の私たちが読んでも鼻血がでそうである。
すごくお互いを想い合い、求めていて、夢を見るほど会いたくて(ドリカムlovelovelove状態)・・・
でも、想いが募るほどそのピークでこう言うのだ
「揺り起こしたり、かきたてたりしないでください。愛が目覚めたいと思うときまでは。」
結婚のその日までは、我慢させて!誰も何も、私の心をかきたてないで!

・・・大事な一線はどんなに気持ちが盛り上がっても超えない、理性。

そして、たくさんの「相手にあげたいもの」「相手を褒める、讃える言葉」
雅歌には書かれています。
奪うよりも、与える愛・・・
本当の愛は、与えたい讃えたい気持ちでいっぱいになるのかもしれない。

神はソロモンとシュラムの女の結婚を祝福したかどうか・・・
ご存知のように、ソロモンは政治的な理由でいろんな国の女性と重婚しています。
神様は、この時代、律法の中でイスラエル人の異邦人との結婚を許していません。
「シュラム」というのは、おそらくイスラエルの町「シェネム」だと思われます。
つまり、シュラムの女はイスラエル人。だから、この結婚は神の御心にかなったもので、
大いに祝福を受けたと思われます。


さあ、いかがでしょうか。
盲目の恋の、悲劇。
そうでない恋のポイントと祝福。
何が違うのか、どこが違うのか、
超えてはいけないラインはなんなのか・・・

なんとなく見えてきたのではないでしょうか。



恋をすれば結婚ができるわけじゃない
(恋する気持ちが幸せな結婚の鍵ではない)

そして

幸せな結婚のために愛がある
(二人をより結びつけていくために愛がある)


さぁ、そんなわけで、
ソロモンに出会うために
シュラムの女に出会うために
是非お越しください!
交わり会、お見合いパーティーへ!!!


==お知らせ==
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2017年2月14日火曜日

「理想の人と出会えますように」の先にあるもの

3/20のお見合いパーティー、すでに7名のエントリーがあります。
今回は出足が早いです。開催決定です!
迷っている方、早めのエントリーをお勧めします。

さて、
結婚を祈るとき、皆さんは何を考えるでしょうか。

一人で結婚を祈っている時、一人で結婚について思い巡らしている時

「こんな人と出会いたいな。あんな人だと幸せになれそうだな。」
と、思いは膨らんでいくと思います。
つまり
『理想の相手』をどんどん思い描いていくんです。

ところが、
お見合いパーティーや、お見合いで、ガーンとショックを受けたり
ものすごい疲れる感じを覚えます。
その理由の一つは
相手を目の前にしてはじめて、自分が「見られている」ことに気づくからだと思います。
自分が相手にしようとしていたことを、自分もされているという現実に、
ハッと気づいた時、急に焦ってしまう・・・。
焦りながら、思いつきで、相手の理想の人になろうと背伸びをはじめる、取り繕う。あるいは、アァ間に合わない…と、軽く絶望してしまう。
でも、その焦りや背伸びや絶望は、相手に伝わってしまうんです。
そして残念ながら
「なんか虚勢張ってる。見栄っ張り。うそくさい。」「やる気ないの?」
という感想を持たれてしまうこともあるんです。


実は、一人で婚活しているときにはつい見落としてしまう大事なことがあります。

それは、
「人間を相手にしている」ということです。

一人で結婚を祈っている時、
思い描いている『理想の相手』というのは
どうしても、自分にとって理想的、自分にとって都合の良い相手像になると思うのです。

でも、ちょっと待って・・・

相手にだって『理想』がある。
相手も自分に『理想』を求める可能性がある。

じゃあ、
自分は、誰かの『理想の相手』になる準備はできているか?

この視点を見落としがちなんです。

もう少し大人な言い方をすれば

自分は結婚相手の人生に責任を持つということを、ちゃんと意識しているのか?

ということなんです。


私たち夫婦は結婚5年目です。
まだまだ、お互いに発見があるし、関係性は変化の途中です。

ある時の夫婦の会話。

夫「あぁ、明日も仕事かあ」
妻「おう、がんばって!」
夫「イヤやなぁ・・・」
妻「…あのね、自分の自由に生きたかったら、結婚はしないほうがいいと思うよ。誰かの人生を負っちゃだめよね。」
夫「そうやな、結婚したら、他人の人生巻き込むってことやもんな」
妻「そうやろ?ひとの人生に責任持つってことやん。
でも、プロポーズしたってことは、それも覚悟したってことやろ?」
夫「そうやな。」
妻「うん。家族背負っとるんよ。」
夫「そうやな、君の人生巻き込んでまったもんな。」
妻「そうやね。お互いね。じゃあ、仕事、がんばろか」
夫「はい」

これは、もちろん、私(妻)も同じく、夫を背負っています。
私は、家事や食事の用意、家計の管理、義両親等への配慮などをすることで
この家庭と夫への責任を果たそうとしているわけです。
私との結婚によって夫の人生も変わってしまった。
私は、夫の生活や健康、メンタルは私が妻の役割として責任を負っている。
そのために、私も一人の時のように自由にはできない部分はたくさんあります。

お互いがお互いのために変わらざるをえないし、
お互いに責任をもち、お互いに役割をおう。
これぞ「結婚生活」なのだと思います。
私たちはそれを選びとったし、なんだかんだで後悔はしていません。

それは、それが良いからとか悪いからとか、メリットがあるとかないとか
そういう次元の話ではなくて
神様が私たちにそういう人生を与えたから、という意味において、
後悔をしてないということです。


家族がお互いに責任を持つ・・・
これは、生まれ育った家族においてはあまりない概念かもしれない。
子どもであるときは、親への責任を子として果たさなきゃ家族が成り立たない・・・
なんて、ほとんど考えないですよね?
だから、結婚で初めて考える、あるいは、ぶち当たる壁なんだと思います。


「どんな人と結婚したいか」思い描くなとは言いません。
いろいろ思い描いていいと思います。
未来を夢見ることは素晴らしいことだし、すごく楽しいことです。

けど、同時に、
「その人に自分がどう仕えることができるか」
「その人を自分は幸せにできるだろうか。笑顔にできるだろうか。」
ということも、同じだけ思い巡らしてみてください。

「結婚は、誰かに対し責任を持つこと」
これを意識するだけでも
出会った時の向き合い方は変わるんではないかと思います。


だから、
・相手も意思をもった人間であること
・相手も理想を持っていること
・結婚したら相手の人生に責任を持つことになること
・結婚したら、どうしても自分も変わらざるをえないこと

このことを、心に留めておいて
相手と向き合うことをオススメします。

心に留めておく、でいいと思います。
無理に相手の理想にハマろうと頑張らなくてもいいと思います。(いまさら、だし)
あとは、あなたらしく、素直に相手と向き合う。
押し付けることも、説得することもしなくてよくて、
自分が神に愛される存在として誇りと証を持って自己開示するだけ。


結婚を祈り行動するお一人お一人が実りある婚活期間を過ごされるようにと
心から祈ります。

そして、パーティー、交わり会に、是非来ていただければと思います。

==お知らせ==
★ご参加おまちしております!
3月20日(月祝)
◎ランチ&祈り会(12:00〜13:30)
お申し込み・詳細はこちら↓
http://chubu-chrisitian-marriage.blogspot.jp/2017/01/blog-post_26.html
◎クリスチャンお見合いパーティー(14:00〜16:00)
お申し込み・詳細はこちら↓
https://chubu-christian-marriage.jimdo.com/party2016-0320/

2017年2月12日日曜日

婚活のときの服装

お見合いパーティーの参加エントリーが
少しずつ来ております。

もう、是非、おまちしております。

数少ない機会です。次はいつできるか、わかりません。
どうか時を活かしてみてください。


パーティー前になると必ずくる質問があります。
主に男性から
「どんな服装で参加したらいいですか。」

だいたいこのようにお答えしています。
「フォーマルでもカジュアルでもいいですよ。
カジュアルなら少しきちっとした感じがいいと思います。
ゆるゆるのTシャツとかはやめたほうがいいですね。
ジャケットとか羽織るといいと思いますよ。
もし、ファッションに自信がないときは、スーツでもいいと思いますよ。」

カジュアルスーツ・・・
つまり、リクルートスーツではないけれどジャケットを羽織っている状態
いわゆるノータイジャケット

これが、おそらく、イメージされるのですが

これではないです。

 だったら、ネクタイしましょう。
明るい色だったら、硬くなり過ぎないです。

これだと仕事っぽいけど


 これなら、明るくてお見合い向き
(ヒゲは微妙だけど・・・)

そして、カジュアルもいろいろあるけれど

ジャケット羽織ってても、これはちょっと違う

なんとなく、わかりますでしょうか。
(アクセサリー微妙、中のVシャツも微妙。だるだるな感じ、微妙。)

カジュアルでも、『襟つき』の服を着る!と考えると良いかと思います。
ジャケット着るときも、中はカジュアルなワイシャツが良いと思います。
セーター着るのでも、カーディガン的なものを羽織るのでも、
中にワイシャツなり襟のあるものを着るといいと思います。


女性は、皆さんおしゃれなので、あまり言うことはないです。
大丈夫。


そして、最後に

ぶっちゃけていえば、

すんごいオシャレしたからといって
すんごい正解な服装してきたからといって
必ず結婚が決まるわけではありません!

スーツでノータイでも結婚に導かれた男性もいる。
なぜ今回はそんな地味な服を?!という回にお付き合いが決まった人もいる。
ヒゲが生えてても、結婚決まった男性もいる。
すごくファッションセンスがあってイケメンでも決まらない人もいる。
すごくオシャレでかわいくても、決まらないコトもある。


じゃあ、なぜ、服装に気を使うかといえば・・・

私は「初対面の人への配慮の訓練」だと思っています。

初対面の人にはいろんな人がいる。
服装を気にする人もいれば、しない人もいる。
じゃあ、気にする人に対して少し配慮をしておく。
その配慮で、相手に不安を与えなくて済む・・・会話もスムーズにはじめられるかもしれない。

これ、何の訓練かといえば「伝道」「そこにつながるコミュニケーション」です。

何事も、いろんなことに役立つものです!

だから、
「こうしなきゃ、出会えないかも!!結婚決まらないかも(> <)」と気負わずに
オシャレの練習、配慮の練習になるな〜
と思いながら、服装も整えてみてはいかがでしょう。

ほんと、そんなことで、結婚は決まらないから・・・。
人のワザじゃないから。。。どんな導きも神の手の内にあるから。。。

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2017年2月10日金曜日

記念すること 結婚式が素晴らしい瞬間でありますように

来たる3月、4月にCCMのパーティーや交わり会などに参加してくれた方たちの
結婚式がある。

どちらもCCM立ち上がりの頃からの方たちがいるので、思いはひとしおだ。
悩んだ日々、涙しながら語り合ったときもあった・・・。
本人たちにも私にも、未来は見えなかったけれど、
ただ神様だけがご存知で、そして確かに導いてくださった。
それぞれに最善のパートナーが与えられている。
どちらのカップルも、人の知恵によらず、本当にただ導きで結び合わされていると思う。
だから、本当に嬉しいのだ。

結婚式、披露パーティー、結婚生活の準備は、結構大変である。
その間に、二人が練り上げられ、試される。ふるいにかけられる。
その期間が守られるようにと、心から願い祈る。

結婚式(挙式)が、私は大好きだ。毎回、じんわりきてしまう。
あの瞬間はやっぱり最高であってほしい。

私にとっても、結婚式は最高だった。

神と人との前で誓約をする、あの厳粛にして祝福に満ちたひととき。
承認されたときの、ほっとした思い。
あと、思いっきりドレスの締め付けで、讃美をしながら酸欠になりそうになったこと。
ドレスが重くてうまく歩けなかったこと。エスコートした父の顔。隣に立った旦那さんの息づかい。結婚証明書に書いた牧師先生の字がすんごく緊張してて二人で笑いそうになったこと。
そんなことも含めて、とても思い出深い。

結婚式は最高であってほしい。
人の目に素晴らしくなくてもいい、二人にとって最高の瞬間であってほしい。
なぜなら、その思い出は、その後の結婚生活を支えるからだ。

私たち人間は、弱い。
だから、記念することが、とても大事。

なぜ、毎月(教会によっては毎週)礼拝の中で聖餐式をもつのか。
それは、キリストの十字架と復活、救いを記念して、忘れないためだ。
自分が救われたときのことを、なぜこの聖餐にあずかれるようになったかを、
忙しい生活の中で、思い出すためだ。
そして、「記念してこれを行え」と聖書に書いてある。(Ⅰコリ11:23-29)
イエス様ご自身がそうおっしゃった。(マタイ26:26-28)
そうしないと、人は大事なことを忘れてしまうということを、
神様はよくご存知なのだ。


雅歌では、結婚するまでとその瞬間のうるわしさや感動が本当に豊かに描かれている。
これほどの盛り上がりってあるだろうか・・・読むたびに鼻血がでそうだ。
(でも、夫婦の結婚生活のうるわしさみたいなものを描いたシーンは、聖書にはほとんど出てこないように思う。戒めや教え、あるいはダメな例はあるけれど。)


ちなみに、私たちにはもう一つの婚姻が待っている。
それは、黙示録に書かれている、ずっと将来の、神様と永遠に結ばれて生きるということ。
「また私は、新しい天と新しい地とを見た。・・・私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神の身元を出て、天から下ってくるのを見た。
そのとき私は、御座から出る大きな声がこういうのを聞いた『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』
・・・七つの鉢を持っていた7人の御使いのひとりが来た。彼は私に話して、こういった。
『ここに来なさい。私はあなたに、子羊の妻である花嫁を見せましょう。』・・・」(黙示録21章より)

ここには、神様との素晴らしい結婚と、完璧な結婚生活が描かれている。

残念ながら、これは、人間同士の結婚では実現しないのだけど・・・。
それは、それで良いのだと思う。できないからこそ、想いを馳せるのだ。
この将来の素晴らしい神様との結婚生活を思いえがき、この黙示録のことを覚えるためにも、私たちには「人間の結婚」というものが与えられているのかもしれない。

話がちょっとずれてしまったけれど、
雅歌にしても、黙示録にしても、結婚の瞬間は感動的に描かれている。

私たちの結婚式も、それぞれの個性がありながら、感動的であっていいと思う。
そして、その恵みを思い出しながら、記念しながら、初心を思い出しながら、
長い夫婦生活、家族生活を歩んでいくのだ。


今、あるカップルの結婚式のプチギフトとなるCDをコツコツと作っている。
私のもう一つのミニストリー(賛美と証のミニストリー)とこの結婚ミニストリーが初めて繋がった。
メッセージ性たっぷりの賛美のつまったCDを200枚手作りしながら(間に合うのか・・・)、結婚式当日がとても楽しみだ。

そして、今、結婚を祈っている一人一人が、この素晴らしい瞬間を迎えられるようにと
心から祈っている。

是非、出会いの場に来てください・・・・♪


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2017年2月8日水曜日

無力さを感じるとき

無力だな、と思う。

婚活のサポートのような働きをして3年になる。
しかし、ノウハウというものは見いだせないし、
ありえない、イレギュラーな結婚の決まり方がCCMでも身の回りでも続発している。
私が何かしたのでもなく、CCMでできたのも出会いの機会をちょこっと設けただけのこと。

神様は、私に「無力さ」を教えるためにこのミニストリーを与えてるんじゃないかと思うくらいである。
それでも、神の奇跡としかいいようのないものを、こんなに目の前でみせられたら、
「それでいいな」と思ってしまう。神様の栄光を目撃する、これほどの満足は他にない。

婚活をしていても、自分の無力さを突きつけられることがある。
 頑張ったのにな。
 オシャレしたのにな。
 笑顔作ったのにな。
 積極的にやってみたんだけどな。
 言われた通りやったつもりなんだけどな。

でも、実らないときは実らない。
そんなときに、あらたな「傾向と対策」を突きつけられたら、心が疲れてしまわないだろうか。
良いと言われているはずの方法をやってみてもダメだったとき、自己嫌悪に陥らないだろうか。

私自身は、それを演劇のプロを目指していた時代に、さんざんに味わった。
良いはずのことをやれる限りやったはずだし、チャンスと訓練のためにお金も時間もかけた。オーディションや評価の場に出て、どれだけ鏡で自分の無様な格好を見たことか…。
どんどん自分が嫌いになっていった。自分を嫌いな人間に魅力も輝きもなかっただろうな、と今は思う。
完全、無力。挫折し、夢を諦め、すべて手放し、気持ちもやっと断ち切れた頃に、
人前で歌う機会がどんどん与えられ、今クリスチャンシンガーとして年間10本以上コンサートをやっている。

話は変わるが
今、ディボーションも礼拝メッセージもなぜかキリストの受難のシーンをやっている。
ペテロの3度も「イエスを知らない」というシーンは、本当に心に刺さる。
牧師先生のメッセージを聞きながら、きっと私だったらペテロ以下だったろうな、と思う。私たちには弱さがある。ペテロは、鶏が鳴くのを聞き、イエス様の言っていた通りに「知らない」と言ってしまったことに気づいたとき、どれほどの無力感を味わったことだろう。

でも、ふと思ったのだ。

もし、ペテロがあそこで、イエス様を「知らない」と全否定して逃げていなかったら…
もし、自分で言っていたようにイエス様についていき、仲間だ!と言い放ち、十字架かあるいは石打かで殺されていたら・・・
今、私たちに福音は届いていないよね!?
だって、ペテロが異邦人への伝道の扉も開いたんだもの。そして、ユダヤ人に対してもキリストの十字架の意味をはっきりと証した。それがなかったら世界宣教なんて今ほどきっとなかった。

そして、イエス様は、十字架にかかるずっと前にペテロに宣言していた。
「あなたはペテロです。私はこの岩の上に私の教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎをあげます。なんでもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。(マタイ16:18-19)」
このことは、イエス様の受難の時点では、なんにも成就していなかった。
ペテロを土台とした教会ななんて建っていなかったし、天の御国の扉が開くようなことも何も起きていなかった・・・。
ってことは、このことは、もっとずっと後、十字架と復活のあとの弟子ペテロに実現するっていうことを、イエス様は知っていたんじゃないのか?
これほど大きな使命をペテロに与えておいて、ペテロが一緒に死ぬようなこと、ゆるしただろうか?望んだだろうか?
ペテロが(そして他の弟子たちも)「たといご一緒に死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。(マタイ26 :35)」と言っても
「素晴らしい信仰だ!私と共に死ぬものは幸いです!」などとイエス様が言わなかったのは・・・
彼らが生きている必要があったからじゃないのか?
彼らが大事な使命をもち、十字架と復活と昇天の後に大事な働きをするとわかっていたからじゃないのか・・・?

ちょっと、ぞくっとした。

イエス様が十字架にかかり死なれたとき、弟子たちは、人生で一番無力さを感じたであろう。絶望だっただろう。
だけど、
その無力という砂漠のずっと地下で、水は脈々と流れていたということではないだろうか。

私たちもそうなのではないだろうか。
どんだけ無力であっても、どんだけ絶望であっても、
その根底で、私たちのはかり知らぬ地中深くで、神様のご計画は脈々と流れる水のごとく進んでいるのではないだろうか。

いつかそれが、オアシスの泉のように、地表に出る時があるのではないだろうか。

そう、聖霊が注がれ目が開かれ、彼らの本当の人生が動き出したときのように・・・
私たちにも、急に人生がどっと動きだすときが来るんじゃないか。

あぁ、神様は全てをご存知だ。そして、私たちはまだまだ道の途中。
無力でもいい、絶望でもいい、神様はちゃくちゃくとご計画を進めてくださっている。
私たちは精一杯、目の前の壁にぶつかり、無力の中でへりくだり、栄光を前に感謝と賛美をし、自分なりに歩みを進め、成長させられていけばいいいのかもしれない。

そう思ったら、

ちょっと、前に進むための、希望を感じる。
無力なのも、わるくないな、なんて思える。(私だけ?)





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2017年2月6日月曜日

母(親)との関係(2)


つづき

親を大事にしたい、ないがしろにしたくない、という思いは
クリスチャンとして全く間違っていない。

モーセの律法をみると、両親を敬えというおきてが何度も、厳しく出てくる。
「自分の父または母を打つものは必ず殺されなければならない。」
「自分の父または母を呪うものは、必ず殺されなければならない。」
 ソロモンも語る。
「自分の父をあざけり、母への従順を蔑む目は谷のカラスにえぐり取られわしの子に食われる。(箴言30:17)」

たぶん、自立しなきゃと思うもののなんとなく後ろ髪引かれるのは、
これらのみことばが 心にあるからかもしれない。

でも、同じ律法にこういう箇所もある。
「あなたの息子のうち初子は、わたしにささげなければならない。」
ここを土台として、今は「こどもは(長男長女に限らず)神様にささげるつもりで育てましょう」とクリスチャンの子育てでは言われるのだと思う。

子の立場から見れば、つまりそれは、私たちは神様に捧げられた存在なのだ。
親の手からはなれ、神様のもの、なはずなのだ、と自覚してもいいのかもしれない。

けど、
親だって、間違う時がある。親だって人間である。
明らかに「(聖書的に見て)え、それ、おかしくない?」と思うことを言ったりしたりしてくることもある。

「彼ら(親の立場の人たち)がわたしの定めをないがしろにし、
わたしのおきてを踏み行わず、わたしの安息日をけがしたからだ。それほど彼らの心は偶像を慕っていた。・・・
 わたしは彼らの子ども達に荒野でいった『あなたがたの父たちのおきてに従って歩むな。かれらのならわしを守るな。彼らの偶像で身を汚すな。私があなたがたの神、主である。わたしのおきてに従って歩み、わたしのさだめを守りおこなえ。』(エゼキエル書20:16-18)」

そういうときは、親に従わなくていい・・・神様のおきてに従っていけばいい、とどうやら聖書もすすめているようだ。(なんと・・・・!)

「ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。『人に従うより、神に従うべきです。』使徒5:29

あぁ、その通りです。忘れてはいけない…。



聖書の中の親子で思い浮かぶのは

サラとイサク
リベカとヤコブ・・・

だけど一番は、やはり
「マリアとイエス」の親子
ではないだろうか。

イエス様は、ご自身に与えられたつとめを完全に成すために人生のすべてを捧げた。
ときに、その姿に家族もびっくりすることもあった。
でも、イエス様が家族をないがしろにしていたわけではない。
命尽きる前に十字架の上から、母マリアのことをヨハネに託している。
もし、イエス様が母や家族のことを気にして、成すべきことをしてくださらなかったら、
私たちの救いはなかったし、神の栄光はあらわれなかった!!!

私たちは、自覚するしないにかかわらず、人生において神様から任されていることがある。大きなこと目立つことじゃなくていい…でも人生をかけてなすようにと託されていることがある、と私は信じている。
そして、それをすることで、神様の栄光をあらわせるように、できているんじゃないかと思う。
でもそのことと、神のおきてどおり親を愛することは、両立するのだ、ということを
イエス様は示してくれているように思う。

ただ、具体的に行動するタイミングというものはあって、優先順位もその時々に応じてかわる。だけどトータルで見た時に、それはきっとバランスが取れるものなのだと思う。
そして、ちゃんとバランスが取れるように、神様は導いてくださる。整え備えてくださる。

そう信じて、是非おそれずに、自分の人生を邁進して、
結婚というものに進んで行ってみてほしいな、と思う。
祈っています!

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2017年2月5日日曜日

母(親)との関係(1)

母との関係が、婚活でひっかかり、あるいは壁になることがある

「母がその人をいいとしてくれるか心配」
「母が悲しむ顔をみたくない」
「母の意見が気になって・・・」

それに対し

親からの自立が大切だ、
母親を意識しすぎるのは自立していないのではないか?
聖書に「父と母を離れて二人は一つとなる」と書いてあるじゃないか!

そう言われることがある。

私もそう言われたし、そう思っていたし、そう言っていた。


私自身の話をすると
私と母の関係は、基本的には良好、でもちょっといろいろあった。
私の母は素晴らしいクリスチャンで、そして感情的でもあり、知的でもある。
長女の私が生まれた時、聖書に基づき、そして父(夫)の助言に従って、正しく正しく育てようとしてくれた。けれど、それがちょっと息苦しかったようだ。
我が家ではよく家族会議が開かれる。ある小5の会議の時、母は思い余って
「私はこの子を自分の子のように思えなかった!だからA子(妹)は私の好きに育てた」と言い放った。
私としてはその言葉はショックで、実は20代まで密かに引きづり、20代で大爆発した。
「私はお母さんに本当には愛されてないのか。妹の方が愛されているのか。ひどい!」
ちょっと、遅めの思春期だった。
結婚するまで、ちょっとわだかまりが続いた。今は、母をゆるし、きっと本当に愛されていた、愛されているのだと信じている。
とはいえ、ときどき、この傷はズキズキっとうずくのだ。

それでも、湧き出てくる感情としては
「やっぱりお母さんを好きでいたい。お母さんと仲良くいたい。
なんでもお母さんには話したい。」
というものだ。

今、離れて暮らしている。
ふとしたとき、誰にも言えないことを、電話でもメールでも、
なぜか母に話したくなる。

あぁ、どんなに傷があったとしても、母親を愛したいって気持ちはあるもんなのかな、と
しみじみ感じた時、
婚活しながら母親のことを意識するって、そんな悪いことなのかな、
と思ったのだ。

とはいえ、母親も人間。まるで悪魔の囁きのようなことをすることもある。
それは、人間だから、しかたない。たとえクリスチャン母であっても、人間、罪びと…。

母親に支配されず、でも、母親を愛し続けながら、
婚活することはできないだろうか・・・。


こういうときに、大事になってくるのは、やはり
「神様の視点」なのだと思う。

神様は、親子について、どう考えていらっしゃるのか・・・。


レビ記24:10-23
出エジプトして荒野を行く道中、律法を与えられているのだけれど、イスラエルの母とエジプト人の父をもつ子が神の御名を冒涜する事件が発生。これはその当時特例だったのでどうすればいいか神様に伺う。神はこの息子を裁き、石打で殺せと命じた、という話だ。

選びの民イスラエル人の子だからといって無条件に祝福するわけでも、異邦人の子だから無条件に裁くのでもない。異邦人の子だから律法が適用されないとか、イスラエル人の子だから適用されるとかいうことでもなく、その子自身と神様との問題なのだ。
神様は一人一人を1単位として見ているようだ。
少なくとも、子を親に属するものとは見ていない。
その一人一人が神との関係がどうであるか、とみられる。
ということだと思う。

マタイ19:4-
「イエスは答えて言われた。『創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結びあわせたものを引き離してはなりません。』」
神は、夫婦はふたりだけど一人としてみる。
でも、親子については、そういう見方はしない。ふたり(あるいは3人)で一つとは見ない。ということだと思う。

それでも、
親が気にかかる、親をないがしろにはしたくない、という気持ちが強くなるのは・・・
そして、それはどう整理すればいいのか・・・


(次回につづく)


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2017年2月3日金曜日

願いが叶わないときは…

前回「願いが叶うときは・・・」ということを書きました。

じゃあ、願いが叶わないときはなんなんだろう、とあのあと思い巡らしました。

私の願いが間違っているから?
私が罪人だから?間違っているから?愚かだから?

ご利益信仰、成果に対する報酬、バチ当たる・・・
そういう考え方の中に育つと、
うまくいかないのは自分が悪いからだ、間違っているからだ
と、なんとなく自動的に思ってしまう。

でも、聖書に基づいて
願いが叶わないときに、3つのことを思うようにしている。

1つは、その願いの方向がちょっとずれているから。

聖書を学んでいってわかるのは、
私たちが罪人でも、間違いを起こしても
根本的に神は私たちを愛するということ。
そして、その愛は、私たちが何をしてもどうあっても変わらない。
だから、間違ってても罪があっても、愛を失うわけじゃない。

でも、罪は罪、間違いは間違い、的外れは的外れ
そして神さまは義。絶対的な義。
だから、間違ってても、まあいいわ、いいよいいよ、とはできないお方。
だから、正しい道へと導くために、裁きや試練を与える。

願いが叶わないのは「そっちじゃないよ」という合図かもしれない、と思ってみる。

二つ目は、今は時じゃない。

聖書の中でトキという言葉が出てくるが、ギリシャ語では2種類あり、使い分けられているのだそうだ。
クロノス:いわゆる時間、何時何分という時間の概念。
カイロス:神様が御心の中で刻む時、タイミング

私たちはクロノスを意識しながら生きている。だから、何歳までにこうなるといいとか、いついつまでにこうしなきゃ、とか考えたりもする。
けれど、すべてを支配しているのは実はカイロス(神の時)
あぁ、神様の時計がほしい・・・(笑)カイロス時計がほしい・・・。

三つ目は、私が神を知るため。

願いが叶わない時、パウロを思い出す。
「そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
しかし、主は『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。」(Ⅱコリント12:8−9)

願いが叶わない時、ヨブを思い出す。
ヨブは正しい人であったのに、ありえないほど辛い状況に置かれる。子供、財産、健康を失い、友達には責め立てられる。なんでこんなことが起こるんだ?!
「主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。・・・わたしはあなたに尋ねる。私に示せ。私はどこにいたのか。・・・あなたは知っているのか。」(ヨブ38:1-5)
「ヨブは主に答えて言った。あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。・・・私はあなたのうわさを耳で聞いて今いた。しかし、今、この目であなたを見ました。」(ヨブ42:1-5)

願いが叶わない時の神様からの語りかけは
「わたしはここにいる。
わたしがどういうものなのか、
わたしとあなたの関係をもう一度思い出してごらん」
みたいな感じなんじゃないかと、思うようにしている。

(余談だけど、パウロやヨブをすぐ思い出すのは、私自身にも持病があるからだと思う。
完治はしないと言われている病だ。聖書にたくさんの登場人物がいてくれるおかげで、あぁ私もそうだ、と思えるのは本当に感謝である。)


願いが叶っても、叶わなくても
「わたしはここにいる」という神様のメッセージは変わらない。
「神はともにいる」という事実も変わらない。

それを勇気と励ましの土台として、
1日1日を過ごしていけたらいいな、と思う。
願いが叶っても、叶わなくても・・・・






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2017年2月1日水曜日

願いが叶うときは…

願いを叶えてください、と祈るけど
すべての願いが叶えられるわけじゃない
けれど
神様は願いを叶えてくれるときがある
それはまるで奇跡のようだ

それって、どんなときかなぁ、と思い巡らしていた。

例えば
モーセがイスラエルの民に語る自信がなくて"しるし"を求めたとき、蛇に変わる杖を与えてくれたりした。
荒野で不安になるイスラエルの民に願い通りにマナや水を与え、火や雲の柱で導いたりした。
目が見えるようになりたいと願う人の目を開き、歩けるようになりたい人を歩けるようにしてくださり、治りたいと必死に願う病を治し・・・。

でも、願いが叶うから、"しるし"があるから、すべて問題がなくなるわけでも不安がなくなるわけでもない・・・

『わたしはあなたとともいにいる。これがあなたのためのしるしである。
私があなたを遣わすのだ』(出エジプト3:12)


もしかして、神様が願いを叶えてくださるのは
「わたし(神)はあなたと共にいる」
ということを伝えるためなんじゃないかな。

「私はあなたの声を聞いている。
私はあなたと共にいる。
だから、安心して前に進みなさい。
大丈夫。」
そう背中を押すために、
少しだけ願いを叶え、しるしをくださるのかな
なんて、思うのだ。

CCMでは、不思議なカップルが多い。
普通は結ばれにくいといわれる遠距離カップルが、これまでのカップルの半分以上を占めている。年の差カップルもいる。学歴が違う、職種も違うカップルも多い。
・・・というか、ああ結ばれそうだな、と側目に見えて結ばれたことはほぼ一度もない。
「え!そのお二人?!」というカップルがほとんどだ。
それはどういうことかというと、神様が奇跡を起こしてくださったということだ。
なぜ奇跡を起こしてくださったかと言えば、そのお二人に、またその周りの人に
「神はここにいる。神は共にいる。」と示すためなんじゃないだろうか。

自分の婚活のことをふと思い出した。

紹介してもらった人が、自分の祈ってきた理想に、どストライクな方で、
お見合いの時の話も盛り上がって
「ああ、神様ありがとう!素晴らしい人と出会わせてくれた。私に迷いはありません!!」と喜んだのだけれど、
その後、なんとも納得いかない形で、そのご縁はなくなってしまった。
あぁ・・・泣いたなぁ・・・(笑)すっごい泣いた。
「神様!どうしてあんな素晴らしい人を目の前に差し出しておいて、取り去るんですか!?だったら出会わない方がよかった!」
でも、いろいろ考えさせられ、祈らされて、
その涙の果てに
「私の理想ではなく、神様がみて私にとってベストな人を与えてください」
という祈りになった。
そして、次に出会ったのが、結婚に至った旦那さんなのです。

今思うと、なぜわざわざ、あの泣いて祈るような悲しい出会いがあったのか、
なぜわざわざ一回願いが叶っておいて、取り去られるという体験を与えられたのか、
それは、私が神様と心から対話する時間をもつため、
そのことを通して、「神様は共にいる」ということを私が真から信じるため、
だったのかもしれない。


自分の願いが叶ってほしいって、人は誰でも思う。私も思う。
でも、願いを叶えることで神様が伝えようとしていることも、しっかり受け取っていきたい、とも思う。
ただ、願いが叶うことに価値があるのではなくて、
その背後に、また、その先に、神様の御心やメッセージはあるのかもしれない。
そして、本当に私たちにとって必要なことは神様が絶対に備え与えてくださる!



==お知らせ==
★ご参加おまちしております!
3月20日(月祝)
◎ランチ&祈り会(12:00〜13:30)
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◎クリスチャンお見合いパーティー(14:00〜16:00)
お申し込み・詳細はこちら↓