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2017年3月11日土曜日

魚が獲れない…その中にも神の御手が

受難週ですね。

多くのクリスチャン、教会ではこの時期
キリストの受難を覚えて、どちらかと言えば暗い重苦しい感じになるのかもしれません。
私はどうしても、その先の復活を思い描いてしまう。
受難はイエスさまにとってはひどく苦しいものだったし、本来は私たちが受けるべき苦しみだったけど、
贖われた身としては、その受難は感謝と喜びであるはずだから
私たちが悲しみにくれることはない・・・と思ってしまうのですね。

というわけで、
今日はキリスト復活後のストーリーから、お届け。


キリストが十字架にかかり、死んで葬られ、3日後に墓からよみがえられ、
恐れて隠れていた弟子たちに現れ、感動の再会を果たし、その後
弟子たちがガリラヤ(地元)へ移動した後。

ガリラヤへ帰ったものの何をしたらいいのか・・・
あれからイエスさまにも会えてない・・・
元漁師のペテロは「私は漁に行く。」と言い、
一緒にいた他の6人の弟子たちも「私たちもいっしょに行きましょう」
と、みんなで湖へ行った。
舟を出し、網を下ろす。
“懐かしい感じだ、体が覚えているんだな、また漁師に戻るか・・・”

ところが、全然、魚が獲れない。

“これじゃ、ご飯も食べれない。なんだよ、漁師にも戻れないのか。
家族も養えない。俺たちは何者でもないのか。どう生きていけというんだ。”

おそらく、そうとうな絶望感を感じていたんじゃないでしょうか。
はっきりとした未来も見えない。仕事もうまくできない。
人としての生き方、ありかたも、わかるようなわからないような。
あの怒涛の輝かしい3年間も終わった。その意味もまだ頭の中で整理できない。
挫折感・・・喪失感・・・八方塞がり・・・
湖の真ん中で・・・もうすぐ夜が明けるというのに・・・。


でも、この後に、イエスさまは弟子たちに現れて、
溢れるほどの大漁を与え、共に食事をし、ペテロには明確な赦しと使命を告げ・・・
という、大きな恵みの展開がくるんですよね。


もし、魚が獲れてたら、本当に漁師に戻ってしまっていたかもしれない。
そこそこ、生活を取り戻し、イエスさまを懐かしみながら生きるだけの人生だったかもしれない。
でもそれでは、福音は世界に伝わらなかっただろうし、
そしたら今の私たちの信仰生活もないわけです。


魚・・・獲れないことに、意味があった。

それは、偶然獲れないところに、イエスさまが来たのではなくて、

獲れない時点で、
漁に行く時点で、
いや、きっとその前から、
主の御手が働いていて、この展開(計画)ははじまっていた!
ということだと思うのです。

(ぞくっとしますね♪)

きっと、今の私たちもそうだと思うんです。

婚活でも、収穫がない。出会いが上手くいかない。
出会ったけど上手くいかない。
いいなと思ったけど、断られちゃった。
気合い入れてパーティー行ったけどいい出会いがなかった。
上手くいかない時間はある。
でも、まさに、そのとき、その瞬間にも
神様の御手がはたらいている・・・!

神が離れているから良いことが起こらないんじゃない。
神は離れない!(決してあなたを見放さず、あなたを捨てない)

この聖書のストーリーは、そんな励ましをくれるように思います。

楽しみにしたい、これからおこる祝福を・・・!
網が破れんばかりの祝福と、主とともに食事するような平安と、
涙出るほどの赦しと、あなただけに与えられる召命とを。



==お知らせ==
★ご参加おまちしております!
3月20日(月祝)
◎ランチ&祈り会(12:00〜13:30)
あと10人ほど参加可能!
お申し込み・詳細はこちら↓
http://chubu-chrisitian-marriage.blogspot.jp/2017/01/blog-post_26.html

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