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2017年8月23日水曜日

招かれたという認識

ときどき

心の奥底で

「神を信じてやったのに!神様あなたを信じてあげたのに!」

と思っていないだろうか?

と、ふと我に返って思ったことがある。


信じたなら、願いが叶う。
信じたなら、いいことがある。
信じたなら、人生がうまくいく。
けど、おい
信じたのに、うまくいかないじゃないか。
神様よ、信じたのに、うまくいかないじゃないか!
これはどういうことだ!?
約束が違うんじゃないか?!
せっかく、信じてあげたのに!!!!

はっきり自覚してなくても
実は、そのくらいの思いになってたり
しないだろうか。

だけど

それは、神を下に見ている

考え方・・・ではないだろうか。


「信じてあげてる」なんて
少なくとも、
神を上に見ている考え方じゃない。

神が人より上ならば、
物事の統括権、管理権、決定権は
自分より上の神にあって当然だ。


ガラテヤ6:7〜
「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。」


神を下に見る。

それは、完全に「思い違い」なのだ。

そして、私たちは、
神を侮れるような立場じゃない。


「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」


うまくいかないとか、願いが叶わない・・・

それは神様が祝福をしてくれない、ということじゃなくて、

もしかしたら自分自身に問題がある場合もあるのではないか?
刈り取らねばならない種を、かつて蒔いていたのではないか?

と、私は自問する。

悩んだり落ち込んだりせず、自問する。

「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り・・・ 」
とあるように

私たちは、キリストを信じることで
罪については赦される。命の滅びからは救われる。

けれど、犯した罪の刈り取りは免除されるわけじゃない。

それは、旧約の人物たちを見てもそうだ。

モーセは神に逆らって2度岩を打った刈り取りとして約束の地には入れなかった。
ヤコブは父を獣の皮と兄の晴れ着で騙して祝福を獲得したが、のちに、愛息ヨセフが獣に食われて死んだと血のついたヨセフの晴れ着をもって息子たちによって嘘をつかれ泣くことになった。

私たちも、犯した罪については生きている間に刈り取りをすることになる。

「御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」

もし、純粋な思いで神に仕え、聖書の示す善を行ってきたのなら、
神様はいつか必ず祝福を与えてくださる。

だから、その時期を待つ。

でも、私たちは、完璧ではない。
必ず、罪を犯している。
それは、一般的な犯罪という意味ではなく、
神に対する背き、欺きという意味での罪だ。

その待っている間に、
刈り取りをすることもある・・・のではないかと思う。

その刈り取りは、甘んじて受けなければならない、
と私は思っている。


私たちはそんなふうにして、
いろんな意味で
神の支配下にいる。


私たちが、神を信じてやったのではない。

私たちが、神を認識するから、神が存在するわけでもない。

私たちが、神を信じなければ、神の存在が証明されないわけでもない。

私たちは、神に創られたのだ。


信じようが信じまいが、神はいるし
わたしたちは神の支配下にある。


そして、

信じるようにと

「招かれて」「導かれて」

神を信じる今の生活がある



そのことを、忘れてはいけないなぁ

と、はるかに高い空を見上げながら

思ったりするのです。


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